太子堂の家にさようならを言う

今日は特別な日でした。

それは、生まれ育って25歳まで住んでいた世田谷・太子堂の公団住宅から、一面の雪景色を見渡しているという早朝の夢から始まりました。私が育ったこのアパートは、大きな空と、池尻から三軒茶屋までの景色が一望できる丘の上に建っていたのです。ものすごくいいお天気でまぶしい日差しに真っ白な雪が輝いて、それを、19歳の娘が見て「きれーい!」と大喜びしていました。

ところが、その窓の端を見ると、ふと、はしごがかかっているのに気がついたのです。そして、工事の作業をする人の足が降りてきました。

そうだ、もうすぐこのアパートは取り壊されるんだ、と気がついたところで夢から覚めました。そのことは秋頃に聞いていたのです。

目が覚めると、壊されてしまう建物がかわいそうで、今頃、こんな冷たい夜更けにどんなに寂しい思いをして壊されるのを待っているかと思うと、涙があとからあとからあふれました。

生家の取り壊しとは、人にとってどんな意味を持っているのでしょうか。ともかく私は、取り壊しが間近に迫っているに違いないと考え、建物に呼ばれたんだ、と思いました。

それで今日は、夫と母と下の子をつれて、生まれた家にお別れのあいさつをしに行きました。

行くと、真っ青な空をバックに、居住者全員が立ち退いて空っぽになっていたアパートが、まだ建っていてくれました。全部で10棟ある団地なのですが、どこもシーンと静まりかえり、アバートに隣接してそびえていた国立小児病院(壊される前は国立成育医療センターの分院になっていました)まで広大な敷地が更地になっていました。それで空はひときわ大きく、見事に真っ青でした。

住んでいたアパートは団地の中でも特に小さい6戸しかない建物で丘のてっぺんにあり、2階が私のうちでした。私が「これで見納め」と思って別れた引っ越しの時と何も変わらない鉄のドア。触れて「さようなら」を言おうとしても、「ありがとう」の言葉しか心には出てきません。

小さい日に私たち家族を雨風から守ってくれ、やがて私がひとりになり、そこに夫が来て、最初の子どもを抱く日まで‥‥成長のすべてを見ていてくれたことに対する感謝です。そして、今日、私を呼んでくれたことに対する感謝。

生まれ育った町で子どもを育てたい、と思いながら、私は結局遠くへ引っ越してしまいました。

それにはいろいろな理由があって納得しているのだけれど、あなたの家はどこですか、と聞かれたとき、人は誰でも小さいときを過ごした家を「世界でただひとつの家」として思い浮かべるのではないでしょうか。

2005/01/08