2005年09月一覧

さくらももこワールド

連休の一日、銀座MATSUYAへ「さくらももこワールド」という展覧会を見に行きました。先日書いたように娘がちょうどこの夏はさくらももこエッセイの夏でしたので、連れて行ったわけです。

入り口には、篠山紀信氏撮影のさくらももこさんの写真が。紺絣の着物に赤い髪飾りをつけ畳に寝ころんでいる、とてもキュートな写真。これだけで、来場者はもう満足感いっぱいです。

『りぼん』投稿時代から今にいたる20年の軌跡はボリュームたっぷりでした。私が特に印象に残ったのは、彼女がデビューした時の感動をそのまま持ち続けていること(初めての掲載誌を道ばたの外灯の下で見ている絵などありました)、コジコジ原画の深いファンタジー、それからTVには決して顔を出さずプライバシーを確保している姿勢などです。今回、これだけ素顔の自分を展示してくれたということは大サービスだったのではないでしょうか。

子育てのはじめの頃は本当に大変だったみたいですね。寝かせるのに三時間かかったりしたとか。でもその前後から絵がめきめき腕を上げていて、何だか感動します。この息子さんが、自分のおかあさんがさくらももこだとずっと知らなくて、しかもファンだったというのは有名な話。

『神の力』のようなブラックな漫画を描いたり、立体作品を作ってみるなどいろいろな試みを重ねながら国民全部を巻き込んでいく作品に昇華していくさくらさんの力はすごいなと思います。

一番惹かれた絵は、仕事部屋に飾ってあるという、一匹の大きな魚の絵でした。さくらももこらしい蛍光色系の色がのびのびと、力強く使われていて、まっすぐ、まっすぐ泳いでいました。

娘—そう言えばまるこちゃんと同い年—は、『神のちからっ子新聞』をせしめ、地下鉄でもクスクス、イヒヒ、アハハ‥‥と笑い続けながら帰りました。これ、かなりおもしろいです‥‥。 2005/09/19


わが家の戦後

息子のライブ、朝「ほんとに来ないで、お願いだから」と釘を刺され「おかあさんに二言はありません」などと行ってしまった私は、ほんとに見に行きませんでした。バンドの他のご家庭ではみんなこっそり行ったのに、馬鹿正直な私です。

しかし息子は喜んでくれ、校内ですれ違ったとき投げキスを送ってきました。息子も馬鹿息子です。結局、「来年は行くからネ」ということになったので、まあいいか。

祭りも台風も、そして選挙も去ったいいお天気です。今回の選挙は、わが家も見事に地滑りました。とりわけ劇的だったのは私の母で、選挙から帰ってくるとボーゼンと「私が自民党に入れたわ。自分で驚いたわ」と言いました。今朝もまだ言っていました「この私が‥‥この私が、自民党にいれるなんて」

母は女性選挙権ができた時に二十歳になり、戦後、『青鞜』を愛読していた自分の母親と共に感動的な第一回目の投票をしたそうです。それから就職したのは国家公務員、戦後にデモ隊が皇居になだれ込んだ「血のメーデー事件」なんぞも実際に知っている組合運動の人でした。

母は80才なのですが、きのうの選挙では少し楽になったかもしれません。長い間、時代に合わない憤りを持ち続けていたので。わが家の戦後も終わりにけり‥‥かな。 2005/09/12


あー、つまんない

この一週間ほど、地域の用事漬けで深刻な仕事時間不足‥‥先週末は子供会が20〜30年ぶりに夏祭りを復活させてしまい、予想の何倍もの人が来ました。ヨーヨーや綿菓子作るのうまくなりました。きょうは午前は息子の高校PTAの学祭準備手伝い、午後が下の子の小学校保護者会で夜は自治会。

久しぶりに高校の学祭前日の雰囲気に触れました。今の高校はダンス、ダンス。ダンスユニットが大流行です。校内いたるところで、男の子も女の子も真剣な顔をしてステップを踏んで明日に向け練習していました。

それでうちの息子はというと、パンクのバンドでギターを弾いているので明日はライブをします。でも、私には絶対に来ないで欲しいとのこと。ああ、私は日本にパンクバンドというものが生まれたとき、お仕事でさんざんライブを撮っていたのに息子にはそう懇願されてしまいました。私がいると、わめいたり暴れたりしにくいんだそうです。

あー、つまんないの。私は明日PTA喫茶店というものの係をしに高校へ行くのですが、そこから出ることなく、ぶーぶー言いながら珈琲沸かしていることでしょう。あー、つまんない。息子がバンクバンドでわめいたり暴れたりしているところなんて、どれだけ見たいことか! 2005/09/09


山本高治郎先生を訪問する

母乳史の取材で、岩波新書『母乳』の著者であられる山本高治郎先生を湘南のご自宅にお訪ねしました。御年88歳です。

『母乳』は、私が母乳の名著を一冊選べと言われれば迷うことなく選ぶ一冊です。それで長く尊敬申し上げつつ、しかし近づきがたいほど尊敬申し上げてしまったので、お会いするのは今回が初めてでした。

山本先生はフランス語に堪能で、かつてフランス小児科の権威ルロンの著書『育児学』を翻訳されました。この本でルロンは自律母乳を当然至極のこととして記し、管理的な授乳こそ科学的だと思っていた日本の専門家の目を覚ますひとつのきっかけになりました。

なぜ山本先生がフランス語ができたかというと、東大の恩師に「私は英語、フランス語、ドイツ語の三カ国語ができない者は大学生扱いしない」と言われたのだそうです。なんという学習環境。その恩師とは、今では詩人として知られる木下杢太郎でした。当時の東大医学部は第二文学部とさえ言われたそうです。

でも山本先生自身は、時間決め授乳にははじめから疑問をもっていたそうです。それは、農村に育ち、ご自身のお母さんや近隣の女性の母乳育児を見ていたからだそうです。

母乳育児のやり方かおかしくなったことについて、山本先生が繰り返しおっしゃったのは「母乳だけの話ではありません」ということ。「私たちはどこから来たのか。どのように作られたのか。今、私たちはみんなそれを考えて、反省しなければならないですよ」

おいとましてから、この「どこから来たのか」「どのように作られたのか」というふたつの表現が、何度も頭にリフレインします。こうした、言ってみれば宗教的なものの見方ができるかどうかで、現代人は二派に割れている気がします。

母乳は、かつては生存への唯一の道でしたが、今では粉ミルクでも明らかにちゃんと育ちます。その時代にあって「母乳がよい」と言うことは、かつてとはまったく違う意味を持ってきた。

それは、やはり自然に対する謙虚さ、あるいは畏れを感じるかどうかということですね。もちろん身体の問題としてさらに追究していくことは大事ですが、本質的にはその人の哲学ではないかと思いました。 2005/09/16