被災地という聖地−石巻で

3.11から1年目を迎える日が近づいてきました。私は『AERA with Baby』から、被災した三県で1年の変化を聞く記事を依頼されて取材中です。その中で、今回の記事のテーマに直接的な関わりがあるわけではないのですが、沿岸の風景はどうしても一度は直視しなければならないと思っていました。

仙台からバスで約一時間。車窓からは、つらつらと寂しい雪景色が続き、その向こうにきれいな夕焼け空が広がっていました。

やがて入った市街地は、どこにでもあるようなロードサイドショップが続くバス通り。そこに、ひときわ目立つのは巨大なイオンモール。そこから少し行くと石巻の駅につきました。ふと気がつくと、もう日はとっぷり暮れていました。

「どうしてもっと早く来なかったの。こんなに暗くては何にも見えないよ」と何度も運転手さんに言われながら、私と編集者さんとでタクシーに乗り込み、駅を出発。「自衛隊さんやボランティアさんでこんなにきれいにしてくれたの。」と運転手さんが言うように、確かに駅前には津波のあとを思わせるものはほとんどありませんでした。

タクシーははじめに細い道をシュルシュルと上って、日和山に上りました。そこからは、津波ですべてを奪われた広大な海辺の平地・湊地区が一望できる場所です。そしてそこには、その風景をフレームにおさめるかのように、海に向かって鳥居が建っていました。もともとそこに神社があって、建っていたのです。山の斜面は、一面にさくらの木が植わっていました。鳥居とさくらは、亡くなられた方たちの魂を鎮めているように見えました。日和山は、もしかしたらずっと昔からすべてを知っていたのでしょうか・・・。

「私も家に水が来て、家族みんな屋根に逃げたの。海水をかぶりながらそこに一晩いたから、すごい寒がりだったんだけれど寒さに強くなっちゃったよ。」運転手さんも九死に一生を得る体験をなさっていました。

それからタクシーは、日和山を一気に降りて湊地区に入りました。「ここ、何にもないの」そこに広がっていたのは、闇の中をどこまでも広がっていく、真っ平らな広大な更地。

そんな広がりの全体を見渡すように、山を背負うようにして、あの小学校は火災で黒く焦げたままの姿で建っていました。

自衛隊やボランティアの方々の大変な働きで、道はできていました。その道を通って海に近づいていくと、石巻市立病院などいくつかの建物がぽつん、ぽつんと残っていますがやはりほとんどの所はぽっかりと空白なままでした。時々、鉄筋がぐにゃりとまがっている建物があったり、あとは、波に運ばれて来たままの傾いた船や、巨大な看板が転がっているばかりでした。

海岸線に沿った道の両側には、車が何層にも積み重ねられて延々と続いていました。

そんな中で、漁業が少し再開していることは、灯りがついている船の存在でわかりました。ここで水揚げをして、塩釜港に運んで加工するのだそうです。

港を離れて駅に戻ろうとすると、活況を見せているパチンコ屋さんがありました。「津波が来た時、私、家にいてよかったあと思うのよ。病気あるからさ。パチンコ。行っていたら流されていた。パチンコはたくさんあった。ここだけ再開して、みんな、後のことを考えないでこういうところで失業手当などのお金を使ってしまう。でも、それも、いたしかたないことかなと私は思うの。こんな先が見えない状況で一日仮設住宅に閉じこまっていたら頭がおかしくなってしまうもの」

仮設住宅群が並ぶ町。「このあたりは一番いい」と運転手さんが言うだけあって、そのあたりは銀行やしまむらなどが並んで再開していました。でも、食料品を買うところがほとんどないのだそうです。パチンコ屋さんはあっても、しまむらは開いても、食べ物が買えない。やっと最近になって、コンビニができてきたそうです。少し行くと、小さなミニストップが一軒、明るく光っていました。

運転手さんも仮設住まいをしていました。狭くて大変だし、仕事をしている方がいいと思って、同僚に先んじて働くことにしたとのこと。

「仕事があってありがたいですよ。仮設に入っても電気、ガス、水道で4〜5万かかります。義援金は、子どもたちの通勤の足がないから車を買って、それでなくなりました。この三月に失業手当の給付が切れるから、そうしたら石巻にはいよいよ収入のない人があふれます。」

「家をまた建ててがんばればいいじゃないかと言われてもですね、それは、お金があれば、誰でも、何でもできるんじゃないですか。そしてまたそれは、年齢の問題でもあるんじゃないですか。若い人はお金借りられるけれど、私くらいの年齢になったら銀行もお金を貸してくれないもの」

「もっと明るいうちにきて、一杯写真を撮ってほしかったな」帰り際に運転手さんが行った言葉。「いっぱい写真を撮って、石巻はまだこんな状況ですって、お仕事の人やお友達に見せてほしかったな」

そうだったんですか・・・私はこのような場に部外者がポッと来て、ぱちぱち写真を撮ってあっという間に帰って行くのは恥ずかしくて、シャッターをほとんど切れないでいました。確かにほとんどが暗闇の中だったけれど、少しは外灯もあって撮ることもできたのですが。

のこのこと今頃来るのであっても、誰かが石巻に気持ちを寄せ、そして見に来たことをこの運転手さんはうれしく思ってくれたのかもしれない。

被災地を忘れないでほしい。あの運転手さんも、このよそ者が、素通りの者がそそくさと帰っていくのを見て、そう思ったのだと思う。

ボランティアも、各地で引き上げていく時期。ここは、まだこんな状態なのに。被災地はそのほとんどが高齢化の進行した地域で、その上さらに今、若い人たちが櫛の歯が抜けるように内陸へと移動しているのに。人がたくさん来ればいいというものではないだろうけれど、これからの被災地は人気がなくなっていく寂しさを感じざるを得ず、本当のつらいところにさしかかっていくのかもしれない。

帰ってきてから、何をしても、いつもどこかで石巻のことを考えている。

それは「1日でも早い復興を」という言葉とは違う気持ち。現実には経済の復興が何よりも大切だけれど。本音を言えば、ただ単に、心がそこに向く。風に吹かれるように、そこに向かい、そこに向かって手を合わせたいという気持ち。それはきっと、私も日本人だから。 2012/02/05