シーナからもらったもの

6月23日、NHKラジオ第一放送「午後のまりやーじゅ」という番組で一時間半という長いトークをさせていただきました。確か、このあたりに「屋根裏」があったよねえ、なんて思いながら渋谷駅から今日はあえてセンター街を通ってNHKへむかう。

尺が長いけれど、ディレクターさんは、以前「ラジオ・ビタミン」という番組でフルに一年間ご一緒した方(三児の母!)なので安心。・・・と思っていたら、私のことを知りすぎている彼女は、何と、私が二十歳の頃のことからしゃべるという提案をしてきたのでした。

例えば、1986年に私が初めてお産を取材した時のこと。

これは、講演などではよく話しているのですが、青森の下北半島で80代のお産婆さんと90代のお産婆さんをたずねたのです。

当時、26歳で第一子を出産したばかりの私は、富士山まで見えちゃう都心のマンションの10階に住み、公園でのママ友トークしかない世界で日々を過ごすことに強い閉塞感を感じていました。それまでしていた雜誌のカメラマンの仕事を、育休だと思ってお休みにしていたのです(フリーだから自分で決めるんですけれどね)。

今も、そんな生活をしているママはたくさんいるのだと思います。そして、それが子どもにとってはママがいつもそばにしてくれるから一番いいことなんだ、という風潮が、日本には根強くあります。でも、はっきり言いましょう。私の考えですが、こと核家族の場合、それはまったくの錯覚です。なぜなら、人間は社会的な存在だからです。1日中、お話もできない子どもとふたりぼっち。時々ふたりぼっちの人同士がおしゃべりする程度。そのことの、一体どこが理想的な子育てなのか、私にはさっぱりわかりませんでした。

だから私は、どこでもいい、私に自分がしていることとはまったく違う風景をみせてくれるどこかへ、私が生き生きとした姿を子どもに見せながら笑いながら子育てをするために必要な何かを探しに、どこかへ行きたかったのです。

そんな時、驚くべき年齢の現役産婆さんの存在を知り、気がついたら私は、当時話題を呼んでいたマタニティ向け雜誌の編集長に会っておりました。そして抽象的な自分の現代育児への疑問をぶちまけ、取材費として、聖徳太子から福沢諭吉に変わってまもないお札を10枚いただき青森に飛んだのでした。

そして、空港まで迎えに来てくれた80代のお産婆さんが「今晩、自宅でお産する人がお産になりそうなんだけれど、来るか?」と突然言い、そこから24時間位の間に、昔ながらのお母さんと赤ちゃんが生まれてからいっときも離れないお産、そして町中の年齢もさまざまな女性たちが赤ちゃんが最近生まれたおうちに大勢集まってきてお産婆さまの到着をわくわくしながら持っている沐浴など、それまでの私には想像もつかなかった地域社会の世界を一気に経験したのです。

興奮して帰京した私は、見てきたお産婆さんの仕事をルポルタージュにまとめ、それに当時日赤医療センター産科部長だった医師のコメントをつけてまとめました。それが私が初めて書いたお産の記事です。私が見たものには、これは、もう絶対に何かがある。私はお産をこれからずっとやっていくことになる、そんな気持ちは、青森を発つ時には、もう自覚していました。

そして、その記事の掲載号が郵便受けに入り、開封した時、私は息をのんだのです。なぜなら、その表紙にいたのは、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠・シーナ夫婦と3人の子どもたちの家族写真だったのだから。

実は、私が出産前にやっていた写真業の被写体はミュージシャンが中心。その中でも、福岡から、東京に勝負をかけようと上京したばかりだったシーナ&ザ・ロケッツは、ライブにことごとく行っていた時期がありました。映像関係の仲間みんなですごく熱く応援していて、みんな下北沢周辺に住んでいたし、ライブが終わった後は一緒にそのライブのVTRを見て飲んで食べて夜が更けて・・・ということをしょっちゅうやっていました。

イエロー・マジック・オーケストラのステージにも誠ちゃんが客演するようになって、昇り龍の勢いで有名になっていくシーナ&ロケッツ。でも、そんな上昇気流の中で、シーナが時々見せていた、すごく悲しそうな顔に私はすごく驚かされていました。「子どもがおらんと」シーナは、そう言って,時々すごく悲しそうにするのです。その時、誠ちゃん、シーナ夫婦は、まだ小さかった双子の子どもふたりを、福岡のシーナの実家に預けて上京していました。

子どもって、そんなにいいの?

当時、子どもの可愛さなど何もわかっていなかった私にとって、シーナの母性愛、家族愛はそんな風に感じられました。自分に回路がまだないものだから、驚きの対象だったのです。ライブの後のミュージシャンは、それはそれは、皆きれいです。しかも、シーナは、ふつうにしていてもきれいなので、ライブのあとは本当に「どうして」と思うくらい、きれい。そしてどんどん世間の注目をあびるようになっているのに・・・それなのに、そんなに悲しいなんて、子どもって一体どういうものなのだろう? と思いました。

その後、私は諸事情からその仲間たちとは離れてロケッツとも疎遠になってしまうのですが、フリーのカメラマンとして仕事が増えたころ、ふと編集部から薦められてシーナのインタビューに行ったことがあります。シーナの初のソロアルバム「いつだってビューティフル」(1982年)が出た時で、それが、私の初インタビューになりました。そしてこの時、シーナは妊娠中だったのです。私は「お腹に赤ちゃんがいるのってどんな気持ち?」という恥ずかしいような質問をしました。

そして、シーナが、それは特別に素晴らしいことだと連発するのを聞いて、私の中に妊娠への好奇心と憧れがむくむくと持ち上がったのでした。

その3年後、私は自分も産んで、そしてお産婆さんと出会い・・・そして、あの雜誌インタビューの時お腹にいた赤ちゃんが、可愛い女の子になって、誠ちゃんに抱っこされているのを見ることになりました——右上写真の掲載誌の表紙で。

すごく長くなってしまって、これは確実に自然体日記始まって以来の長さですが、あと少し。

今回、ラジオの台本のおかげで、生放送前の数日間シーナ&ザ・ロケッツをずいぶん聴くことになりました。はじめはシーナの曲を一曲かけてもらおうと選ぶだけのはずだったのに、一度聴き始めたら、シーナの声の創りだす強い磁場に吸い込まれてしまったのです。それで生放送の前の晩、フェイスブックでつながっていた誠ちゃんにメッセージを入れると、誠ちゃんは私が撮った35年くらい昔の写真をひっぱり出してきて、その画像ととも全国のフォロアーの方たちに放送のことを紹介してくれた。

私は、音楽写真の仕事は、また戻るのではないかと思いながら自主的な「育休」に入ったのですが、結局、戻りませんでした。そして分娩が終わった後の産婦さんや助産師さんに、あの、ライブのあとのバンドと同じ輝きを見つけるに至りました。

もともと家系には医療関係者が多く元の鞘に収まった面もあります。思えば育休前から、たくさん音楽写真の仕事をしていた時から、周囲にいる音楽ライターやサブカル誌・音楽誌編集者たちの音楽に対する造詣のあまりの深さに「自分はあそこまで行けるのだろうか。行く気があるのだろうか」という自問があったことは確かです。私はどこかで、他の何かを探していました。

でも、探していた何かが青森でいきなり見つかって、それを元へ元へと辿って行くと、そこにはシーナと誠ちゃんの作った素晴らしい家族の姿が浮かび上がります。

しかも、最初の記事が出た雜誌の表紙にまで、ちゃんと居てくれた。

子どもがここにいないと泣いていたシーナ、着物着てみんなで撮った七五三の写真を嬉しそうに見せていたシーナ。あなたのような、愛も、夢も、胸にあふれている女性、他の女性にまで愛する力、夢みる力を与えてしまうような女性がもっと増えればいのに。心からそう思います。

シーナは、音楽に決して妥協はしませんでした。TVの歌番組に出演するようになって、いつものように皆で録画を見ていた時も、シーナは自分が思うように踊れていないと言ってひとりで怒っていた。

ものすごいロマンチストで、とんでもないイマジネーションの持ち主。愛している人の腕の中で死ぬのってすっごくロマンチックで、想像するとドキドキしてくると言っていました。

シーナが死んだと聞いた時、しばらく私はよくわかりませんでした。でも、とりあえずネットを開いてみると、シーナは誠ちゃんの腕の中で息を引き取ったことがわかりました。

あの時、自らの死の場面すらもときめきに変えていたシーナの夢見の力に私は身震いがしたけれど、本当にその、思ったとおりの死を遂げた、パーフェクトな、シーナの命。

若い日にあなたのような女性のそばにいられたことを本当に幸運だったと思います。その幸運を、今度は私が誰かに渡したい。

ありがとう、ありがとう、シーナ。
2015/06/24