松田道雄論の骨格を組む

寝ても覚めても松田道雄の本・・・に可能な限り近づけて、ようやくこの人の全体が像を結んできた。

京都の町中で天真爛漫に育った少年は文学好きから三高時代マルクス主義という「信仰」を持ち、友人は投獄され、みずからも特高に追われる身となる。しかし戦後に晴れて現実の共産主義国家に触れることになると直ちにいたく失望して虚無主義に。

しかし松田道雄は医師であることが幸運だったと自分で何度か書いている。医師であることで、京都の最下層の人々がやってくる結核の診療所で診断基準を確立し、厚生省が注目するような予防のプランを自主的に作成することで理想をいくらかは実現できていると感じることができた。

そして戦後は代々の気質から誰にも仕えない開業医となり、子どもという弱者のために闘った。保険点数のための過剰医療を徹底的に拒む自由診療の小児科医となったが、それで生計を立てるためには、文才を生かして育児書を書く必要があった。

折しも小さい子どもを抱える母親たちは都市化、核家族化、受験戦争激化の中で、軍国主義的なドイツ育児の流れから来る時間決め授乳、添い寝の禁止、離乳食の早期開始、家にいて子育てに専念することのすすめなどにより現代に続く不安な子育てを始めたところ。

松田道雄の育児指導の武器は、恩師や父親から受け継いだ頑固なまでに丁寧な観察と問診が培った臨床体験、そしてなんといっても漢籍と六カ国語を読みこなす語学力と並外れた読書力であり、その生涯の蔵書の数は書籍16,643冊、和綴じの書物358冊,雑誌が17,000冊に上った。

当時の母親たちが当時首っ引きで読んでいたのは、小児科医が書いた、気候も文化も大きく違う西洋式育児の引き写しだった。それは母から娘へ、またその娘へと伝えてきた母乳育児の知恵を、高度成長時代、ずたずたに破壊して、粉ミルクと密室育児の全盛時代を作りあげた。

松田道雄は今日でいうEBMの実践に撤し(毎日午後は海外の医学雑誌を読んでいたという)、年長の育児に熟練した女性の話も聞き取り、日本を子ども天国と言ったベルツやオルコットが書き残したようなのびのびとした「日本式育児」を提唱、その上に共働きや子どもに自由に遊べる空間がなくなったことを考慮して、母親の就労に関わりなくどの子にも保育園での集団育児が大切であると強調。保育園に、これほど発達上の期待をかけた人はいないだろう。

『育児の百科』は、根気の要る小児科診察ができなくなってきたと感じた60歳寸前の松田道雄が、これからは書物を好きなだけ読んで暮らしたいとみずから企画した。内容は、親たちを振り回している「育児指導」へのアンチテーゼ。その発売を知らせるパンフレットは当時の小児科の権威たちへの挑戦状だった。この本は昭和の大ベストセラーとなった。

「ともかくえばっているものがきらいなのだ」とも書いている松田道雄は反骨の人だった。しかし、それは、ものごとの価値は自分の頭で考えよというだけで、最後まで虚無主義者でもあった松田道雄の著作には勝ちや負けはなく、どこか心地の良い影があり色香がある。戦時中、押し寄せる結核患者たちに毎日死の宣告を行い、解剖をしてという日々の中でも、海女が海上に浮かんでは息継ぎをするように眠る前には文学をむさぼり読んだという、おそらくそうした時間が松田作品の魅力につながっている。

キャリア女性への書簡の形をとった『女と自由と愛』は多様化していく女性読者への知性の贈り物のような一冊。2年半もかかったと記されていて、おそらく最も時間がかかった本のひとつだが分析は実に鮮やか。

晩年は心臓を患うも入院や治療は、断固拒否。かかりつけ医も「これから先生の死にざまを見せてもらいます」と覚悟をくくった。
「活字が読めるあいだ、ビデオが見られるあいだ生きていたい。一切空の虚無であるだけ、人間の想像したもので埋めていきたい。それを可能ならしめる自分の命、それは私だけのものだ」(『幸運な医者』より)

幸せな医者、であったことは間違いがないのだと思う。大学時代、松田道雄は啄木のこんな詩のような未来を、医者をやりながら余暇には本を読むという生活を夢想して楽しんでいた。
「場所は、鉄道に遠からぬ
心置きなき故郷の村のはずれにて選びむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構え、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても
広き階段とバルコンと明るき書斎・・・・・
げにさなり、すわり心地のよき椅子も」
思いどうりの甘やかな暮らしを何十年も楽しんで、松田道雄は21世紀になる直前、90歳の初夏に発作を起こして自宅で亡くなった。

『ひとびとの精神史』第3巻(岩波書店、全9巻)中「『政治の季節』の日常感覚」の一部になるもののアウトラインです。写真の、地がブルーのパンフレットは『育児の百科』が発売された当時の宣材で大変貴重なものです。

今回は育児に焦点を当てます。ただし振り返れば育児ばかりなく、女性の生き方、都市化と地域、老い、安楽死など今日の課題についてあますところなく見事に論じていた松田道雄は、今こそ読み直したい人です。2015/07/07