「なぜ出産にそんなに興味を持ったのですか?」これが、私が初めてお会いする方から、必ず聞かれる質問です。それには自分なりに思い当たる理由がいくつもあります。小さいころから生き物が好きだった、ということもあります。でも、一番根っこの部分に在るのは、育った家庭の環境ではないかと思います。
私は1959年、東京都世田谷区の太子堂という町にある公団住宅で育ちました。誕生当時、父親は44歳・編集者。そして母親は34歳の厚生技官でした。私は初めての子で、母のこの初産年齢は、当時としてはかなり遅いほうです。
母は大正14年生まれで、敗戦の年に二十歳になった人です。女性参政権ができて初めての選挙に自分の母親、つまり私の祖母と一緒に身なりを整えて行ったそうです。この祖母は京都出身の絵を描く人で、高名な日本画家に師事することが決まったとたんに東京へ嫁がされたことが悔しくて、生まれた女の子4人には「女性も自立せよ」と教育しました。
そうして育った母は、結婚後も子どもは持たず、キャリアを追及すると決めていました。ところが、太子堂の真新しい公団住宅に入ると、母は、その明るい窓辺で赤ちゃんをひなたぼっこさせてみたいという誘惑に駆られました。そして、ついうっかりと、私を産んでしまいました。
さあ、それからが大変でした。保育園も育休もほとんどない時代で、母は保育園を作る運動もしましたが実ることはなく、毎日出勤するためにひとりの女性を雇用しました。しかし、その女性は来られない日も多く、母は祖母、叔母、叔父、ご近所などありとあらゆる人に頼って私を預けました。それは子どもの目から見ても非常に大変そうで、夕食後はいつも食卓に座ったまま眠っていました。私が今、女性が抱える産みにくさについて書いているのは自分がこのような育ち方をしたことが大きいと思います。
もうひとつの大きな理由は、自分自身が妊娠、出産、子育てを経験して、たくさんの疑問を感じたからです。日本の産科医療や出産ケアは、まだ科学的根拠や母子・家族の事情より、医療側が抱える諸々の事情を優先してしまっている部分が多いと思います。
そこで、子どもが1歳になるころ、当時27歳だった私は知りたいこと、見たいものをたくさん抱えて、取材活動を開始しました。妊娠前の職業がカメラマンでいくつもの出版社に出入りしていましたので、出産や育児の記事が書いて撮れる媒体へ売り込みに行ったのです。当時の私は、自分の目と耳と足で、自分が納得できる出産や子育てを探したい、と必死でした。それは自分の子育て探し、第二子以降の産み方探しでもありました。
振り返るとそれははや約30余年に及びます。プライベートでは子どもの数が3人となり、取材で知ったことを試し続けるような子育てでしたが、その子たちも今ではすべて独立しました。
でも今でも、大切にしたいことはまったく変わっていません。それは、女性が願う、そして自分で感じ、考えて納得できる出産を応援したいということです。
祖母は、挑戦したい世界があったのに、女性であるためにそれを奪われました。母は社会で活躍しましたが、家では心身ともに無理ばかりでした。三代目の私は、妊娠・出産という女性にしかできない行為を真ん中に据えて、2人が失ったり得たりしたものの調和について考えています。
妊娠・出産に特にこだわっているのは、育児は男性も大きな役割があって多くのことが出来るのに対し、妊娠・出産は女性にしかできないことだからだと思います。現代では、そこに負担感を感じる女性が増えていますし「性はグラデーション」という考え方も浸透しつつありますが、私は、女性という性に対し、男性との協力も含め、大きな期待や関心を持って仕事をしています。
これまで、本当にたくさんの方々とのご縁を頂き、お力を貸していただきながら妊娠・出産の活動を続けてきました。これからも、時代に必要な応援を続けていきたいと思っています。