「危ない」という理由で添い寝を禁止する病院は多いのですが、添い寝をしないと育児はあまりにも大変。母乳なんかやってられないし、育児ノイローゼへまっしぐら!という気がします。私は、添い寝をするということは育児行動の中でも非常に重要だと直感的に確信しています。
危険性の真偽は?フランスで親子の睡眠を研究しているマッケナ博士の研究、アメリカでの調査などを紹介しました。
<イラスト>宮下真沙美
こちらから
REBORNスタッフとまとめました。母子同室は多くなってきたのですが、「添い寝(同床)は禁止」「授乳は授乳室へ移動のこと」「移動時は抱かないでベビーコットに入れて」など、規則だらけの同室もあります。こんな不自然な同室は疲れるだけ。奇妙な母子同室の話が一杯出てきました。
突然!電話&インタビューシリーズの中でも注目された回。微妙な問題についての声を集めました。REBORNで読めます。こちらから
米国の出産団体30が会議を重ね批准した「マザーフレンドリーホスピタルの十カ条」について。
中川志郎氏は上野動物園、多摩動物園の園長を歴任し、日本に初めてパンダを迎えたことでも知られる方です。インタビューのきっかけは、中川氏の著書『動物は子どもをこんなに可愛がる』を読んで、この方は、妊娠・出産・育児の肝心要な部分について重要な秘密をたくさん知っている方ではないかと直感したからでした。動物飼育の第一人者に部外者が、それも名も無い小さなニュースレターのために取材を受けて下さったことは当時の私には夢のようなできごとでした。
開口一番、中川氏は、妊娠・出産・育児がうまくいくポイントは、その個体の遺伝子に沈着しているものを尊重することだと言われました。
「その動物が成立した過程で必要とされた条件がみたされないと、母親は安心して子どもを産めない」
中川氏は、子ども時代からうさぎの繁殖を担っていましたが、飼いうさぎの先祖である穴うさぎの習性を調べ、ケージの中で出来る限り穴うさぎの巣に近い環境を再現してやったそうです。その結果は周囲の大人たちを驚かせました。
たくさんの方に取材で出会いをいただいてきましたが、この中川氏からは特に大きな影響を受けたように思います。生き物の深いところに存在し変わることがない「本能」に対し、「文明」というものは人間の上っ面に過ぎないのだということを、中川氏は私にとてもわかりやすく教えてくださいました。
ダイオキシンが入っているから、母乳はあげない方がいいのか?という議論が巻き起こった頃の記事。では、粉ミルクなら安全なのか?などダイオキシンをめぐつては議論が白熱しましたが、結局、母乳のメリットはリスクを上回るという見解に落ち着きました。
「仕事と育児をぷっつり切ったのは、一体誰なのか?」育児と仕事の両立について書いています。3人目の産後は1年近く取材に子供を連れて行きました。3人目にしてやっと自分型の子育てを見つけた思いでした。
関西の助産師さんたちが拠り所にしていた助産院が阪神大震災で全壊し、蘇ったストーリー。
「助産院の開設者は嘱託医を定めて置かなければならない」<医療法第19条> そう定められているものの、これが定められたのは昭和23年です。助産院の安全性のためには、時代に合った嘱託医制度が必要だという記事。
帰国した清水ルイーズさん宅に滞在しての米国取材から帰って一気に書いた記事。当時米国はクリントン政権の医療改革に助産師活用の方向を打ち出していて、これにより年間3億ドルの節約になるという試算が出ていました。
病院との連携も強まっていて、たとえば、助産院で出産する人が「健診は助産院で、お産は病院で」というオプションも選べるようになっています。助産師と連携を進めている医師2も取材ししましたが、連携の理由はと聞くと「医師しかいない場合に較べて女性をひきつけるから」と言い切りました。
日本には対出生数比で米国の13倍もの助産師がいます。しかしそのほとんどが看護師に近い仕事をしていて(させられていて)十分に機能していません。
「私の”流儀”はといえば、できるだけお猿の親子にちかづくことをよしとしている」が、私の3人育てたあげくの結論。
母親が起業した米国の有名な授乳服メーカー「マザーウェア」の話も出てきます。今は日本にもモーハウスのような授乳服メーカーができましたが、この頃は、機能的な授乳服が欲しい人はみんな米国からマザーウェアを個人輸入していました。私はこれに当時本当にハマリまして、何枚買ったかわかりません。
授乳服は、授乳していることがほとんどわからずどこでも授乳OK。「限りなくお猿さんの胸にちかづくのである」と、私は書いています。
大胆な保健政策が隅々まで実施され、村民の健康度が抜群で全国に知られる白川村。出産は、というと村長のお考えは「お産は病気ではない」というものでした。そしてかつては全国にできたのに今はほとんど消えてしまった「母子健康センター」(公営助産院に近いです)を、リニューアルして大活用していました。専門誌の取材は、こんな情報まで入るところが楽しかったです。
「薬剤などで陣痛を誘発、管理して、人手の多い日中分娩に持っていくのが安全なのでは」この考え方は今も昔もあります。この時期、この方法を産婦人科の職能団体が推奨しているのではないかと思われる動きがあり、REBORNの2号目で記事にしました。
1993年設立
1993年9月、私はきくちさかえさんと「産む人と医療者をつなぐネットワーク REBORN」を設立し、ニュースレター『REBORN』を創刊しました。この後しばらく、私はREBORNを中心に活動します。このREBORNの活動はニュースレターの記事を中心にしたアーカイブをウェブサイトとして残してあり、どなたでもご覧いただけます。
活動の概要については、20周年を機に書いたこちらの記事「REBORNの歩みを振り返る 産む人と医療者をつないだ20年間」がわかりやすいかと思います。
年輩の助産師さんは、颯爽と自転車で行く産婆さんの黒いカバンに憧れ、親に懇願して産婆になった人が多いです。奥谷もさんもその年代のひとり。満州勤務をスタートに貧しかった日本のベビーブームを自宅出産の介助者として両肩に担いました。度胸が据わっていて、逆子の名人で、医師も怖いお産があると奥山さんを呼んだとか。
東京・国分寺で矢島助産院を営む矢島さんの半生記。
助産師さんたちの専門誌「助産婦雑誌」の仕事をするようになりました。「お産人」などという言葉を作って連載を開始し、ベテラン助産師さんを中心に半生をじっくり語ってもらいました。瀬井さんは茨城で「美蕾」という助産院を営む助産師さんです。
州内の病院ごとに帝王切開率を公表することを義務化したニューヨーク州知事。同州が出したインフォームド・コンセント出産の手引き”Your Guide to a Healthy Birth”を紹介しました。
日本でもすっかり普及したマタニティスイミングですが、オーストリアの海で水と育ったこのアリス・コイル助産師がとある水泳教師と出会い、コラボレーションしたことから生まれたのです。
この前年には神戸で助産師さんの大きな国際会議があり、世界中のオピニオンリーダーに下手な英語でインタビューしまくりました。
中でも「自分のお産はまったく自由で何も約束事はないけれど、ただひとつ、生まれたら母親が自分の手で赤ちゃんを拾い上げてもらうこと」「私が何もしないほど、母親が得るのもは大きい」と言った英国の助産師・ニッキー・リープさんにしびれたものです。子育てでもそうですが、人が大きく成長できる体験に臨もうとしているとき、余計な手出しをして経験をとりあげることほど本人がかわいそうなことはないのですね。
清水ルイーズさんという米国人バースエデュケーターの方との出会いがあって始めたシリーズ。Family- centered Birthという概念との出会いで、私にとって「出産の主役は産む人と家族」という出産観の基盤をかためた連載でした。
初回にとりあげたのは、60年代米国の反体制文化が生んだ出産文化を代表するとてもユニークな本”Spiritual Midwifery”。イナ・メイ・ギャスキンという有名なヒッピー産婆さんの著書です。性的な刺激で陣痛促進効果を上げたり、陣痛を”rush”(ウワーッ、ウワーッとほとばしる感じ)と呼ぶことを提唱するなど、目から鱗が落ちまくりました。英語ではふつう陣痛はpain(そのまんまです)labor(お仕事?)contraction(収縮‥‥コレ最悪です)‥‥などと言います。
オックスフォードの文化人類学者としてイギリスの出産風景を塗り替えた女性・キッツィンガー女史。初来日したときの講演とインタビューをもとに構成。この後、私はREBORNという出産のネットワークを作り、6年後にこの方をREBORN主催イベント「いいお産の日」第一回のメインスピーカーとしてお迎えしました。
私を出産ジャーナリストにしてしまった記事です。下北半島の恐山の見える町に生きた産婆・赤羽チヤさん。今でも写真を見ると胸が震えます。その感動は、どこで産むとか、薬を使わないで産むとか、そんなことではなかったんだと思います。
産婆という人が生きて機能する共同体の最後の光を見せて頂きました。夜中に偶然飛び込んだお産を見せて頂き、昼には他の赤ちゃんの沐浴へ同行したのですが、その町ではドアをあけると近所の女性と子供がズラーリ並んで待っているのです。みんな赤ちゃんを見るのが大好きなので老いも若きも集まっていたのです。産婆さんは「お産婆さま」と呼ばれて、離婚の危機などあれば真っ先に相談に行く人でした。
東京で核家族の集まる団地に育った私は、こうした共同体の地域力、家族力を初めて見て、そこに感動したのかもしれません。この取材体験はとても強烈だったので、今また書いてみるべきかもしれません。
取材させて頂いた赤羽さんは、このあとまもなく亡くなられ、あの町も産婆のいない町になりました。人の出会いは偶然ではないそうですが、私もそう思います。