本を書き終わったあとは

「自分を研究して自分がいちばん大切に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っていることを書く」

この言葉は、最近また見始めたツイッターで出会った井上ひさしさんの言葉(井上ひさしさんが天国からツイートしているのではないですよ〜「bot」と言って、著名人の言葉を少しずつ配信する仕組みがあるのです)。これが、今の私にはとても響いています。

これこそ物を書く人間がいい物を書くためのとても大切なコツだなあ・・・と思いました。そして、ひとつの不思議さが、心に浮かび上がってきました。それは、今回私が書いた本は晩産の本だったということです。それなのに、なぜ、26歳で母親になった自分が、このテーマを「自分がいちばん大切に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っていること」と感じて書いていたのだろうか。それが、とても不思議なのですが、今の自分には、産みたくても産めない人がたくさんいるという事実は確かに自分の大切な,つらいと思っていることに違いないのでした。

本を何冊か書いてきて、自分の本が書き上がる時のプロセスがわかってきています。分娩も何人か出産した人は自分の陣痛のパターンがわかってきますが、それとまったく同じことです。

私は書き始めは気負いがあって、あれも、これも書きたくて、やがてその山に埋もれる時期がきます・・・このあたりがとてもきつい。しかし、それでは、編集者さんが会社で困るだろうと考え(正しくは、自分のためにそう考え)、我慢し続け、最悪なものを書き綴り続けていると、ある日、ふと雪解けのように楽になる日が来るのです。

そこが、素材と、自分の中にもともとあった「自分がいちばん大切に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っていること」の融解点なのでしょう。それは、ただの化学反応なので何がどのように融解したのかも肉眼では見えないけれど、そのあとは、もう大丈夫になります。あぁ、この本は書ける、と思えて、推敲の段階が深まるほどにいくらでものめり込み、「あら、もう?」という感じで期限がやってきておしまいになります。

取材させていただい方たちの人生がしっかりと自分事になったとき、本当に書くということができるようになります。そこからは、私のような取材をして話を書くことが中心のジャンルでも、どこか小説と同じように、寝ても覚めても登場人物たちと暮らし、喜びや悲しみを共に感じながら書くことになります。

私は文筆業でありながら、普段は、特にたくさん文章を書くわけではありません。こうして日記もろくに書かないですし、どこからどう見ても筆まめとは言えません。

それでも、本を書き終わる時は、普段とはまったく違っています。そして、そんな時は他の人が書いた文章が、また面白くてしかたがないのです。深みのある文章が持つ、剥いても、剥いても、まだ現れる新たな織り模様を大量に感じたい。そこにある人の心の喜びや悲しさや寂しさを、とてもいとしいと思えるのです。

・・・と、まあこんな調子で、本が手から離れ、見本刷りができるまでの時間を過ごしているのでした。タイトルは『卵子老化の真実』となりました。 2013/03/01