東日本大震災を経て

何てきれい、と思って見ていた白いギボウシ、今は若葉に見とれています。ただし、写真はまた違うギボウシ。「6月」という名前の葉の色がとても明るい品種です。

3.11 東日本大震災を経たゴールデンウィーク。あの冬の終わりの日々から、まだ心は離れません。私にとって震災は、私も多くの人と同じように、何か自分にできることはないかと探しましたし、今でも探し続けていますが、考えるほど自分の無力さがようくわかるという毎日でした。それで、ただただあの人にこの人を紹介するということをしたり、個人的な励ましメールを必死に書いたり・・・あとは泣いたり・・・で時を過ごしていました。ともかく雪崩のように落ちてくる現地の医療者からのメールやニュースに耐え、自分が立っているのがやっとだったという感じです。

それでも計画停電だけは自分もさなかにいて「気持ちが切実にわかる!」というところが確信できるのでせっせと取材し、All Aboutに記事を入れたり、この春から新しく始めた仕事であるNHKラジオの「ラジオビタミン」で停電下の分娩について岩手の方の体験や各地の医療者から聞き集めたエピソードをお伝えしました。

こんな時に、どんどん行政や企業と連携してプロジェクトを立ち上げていく人ってすごい。でも、人にはその人に与えられた役割があるのだと、少しずつ言い聞かせ少しずつ自分に与えられた役割に帰ってくることができました。まだ8割くらいかな、という感じではありますが。

電力不足は自分が現地にいることになるのでこれからも動き続けていくことができますし。放射性物質についても、少しずつ妊婦さんのための情報が出てきそうなので仕込み中です。

あとは、個人的に取材先やメールを書いた相手の方がうれしさを表現してくださったことが、なぜかなあと思うほどとても嬉しく感じられました。それから、私の家では、家族の絆は強くなったと思います。お互いを温め合おうと、前よりもそういうことを考えていると思います。

ラジオビタミンの村上信夫アナウンサーが書いた「元気のでてくることばたち!」という本に沢村貞子さんのことばがあります。「たったひとりだけ幸せにできた」という言葉なのですが、この言葉が今の私にはとても心に響く(この言葉はたくさんの活動にチャレンジしてきた沢村さんが晩年にご主人に対する気持ちを語った言葉です)。

スーパー堤防を信じ、先祖が住んではいけないと考えてきた所に町を築いてきた海辺の町。事故はないと信じられ、それで地域も潤うはずだった原子力発電所−−今回の震災は、こうした敗北の気づきでもあったと思います。

それは、どこかで自分がやってきたお産への問いかけに通じるような気もします。それを信じて、環がつながるその日を待ちたいと思います。

そして、身のほどをわきまえ、自分にいただけている役割を黙々とこなそうと思います。
 2011/05/02


子どもの巣立ちを初体験

すごく寂しいことになるのか、それともうれしいことになるのか。大学卒業、就職直前の息子が自分でアパートを借りて独立するというので、それはどんな感じかしらとずっと前から考えていました。

それが、うれしさの方がずっと大きくて、ああ、よかった!と思っている今朝です。今朝は、とてもスペシャルな、フレッシュな気持ちで起きてきました。

引っ越し屋さんのトラックに、スカスカだった息子の荷物。ベッドとこたつ、3本のギターとあとは衣類やCD、本少々が彼の荷物です。ここから出発して、彼にはどんな人生が待っているのか、ただ真面目に前向きに生きていけばきっと大丈夫だからがんばって、と思うばかりです。

夕方にアパートをたずねると、おお、なかなか快適なところ。IHコンロひとつの小さな台所だけど、息子はわが家のご飯に欠かせない昆布、かつお、干し椎茸、みりんなどをすべて持っていってくれてそうしたものを使って自炊すると言ってくれました。そして早速、野菜たっぷりのおいしいうどんを作ってくれました。

夫も来て、親子3人でご飯。今は都内近郊の若者がなかなか家を出られずパラサイトが一般化している時代。息子の友人たちも就職時に家を出る人はほとんどいないそうです。その中でやってみたいと思い、資金もバイトで自己調達するというのですから私たちは大賛成でした。無理をすることはないけれど、自立をやってみたいというなら何よりです。

22歳の春。ひとり暮らしの寂しさと不便さは、大きく彼を成長させてくれることでしょう。

楽しい夕ご飯をして「じゃ、おやすみー」と帰ってきました。

息子が家にいなくなったというより、親子関係が新しくリニューアルされた感じ。

今まで、想像しただけで人知れずめそめそしてきた私でしたが・・・すがすがしい出発となり、本当によかったです。 2011/03/02


からからの庭で

高齢出産の新書をねばって書いていて、家にいる日々が続いています。

母を送ってわが家の庭を自分の庭と思うようになってから年が2周しました。あまり時間が使えないので本当に少しのことしかしていないのですが、それでも自分が植えたものの経年変化を楽しむことがこんなに深いこととは知りませんでした。

多くの草木は、本当にハロウィンのころにバッサリとその年のものを捨て、年が明けるころから次の春の準備を開始します。

ビギナーの私の悩みは、その枯れたものを、落ち葉のように落としてくれる落葉樹はいいんですけれど、からからの枯れ姿でずーっとそのまま残っている草花はどうすればいいのかしら。

まずは、写真の、こんなにカールが美しいギボウシの枯れ葉。きのう切ってしまいましたが、もったいなくて捨てられずデジカメを持ち出す始末です。

このあと、カラミンサというミントの立ち枯れにもはさみを入れましたが、すっかり枯れていて根本にはもう新しい緑も見えているのに、その茎にはミントの香りがたっぷり残っています。さすが。この花は庭でも蝶や蜂に圧倒的な人気を誇っていて、それはたくさんの命を支えていたのでした。

それでまたまた捨てられないのでした。それで、しかたがないのでからっぽの花瓶にさして見ていました。しかし。翌朝には、もうミントの香りはすっかり飛んでいました。不思議ですね。からからの茎にも、土と通い合う何かが流れていたことになります。

もうひとつ、立ち枯れには、その下にのぞいている新しい緑を霜や雪から守る役割があるかもしれないので切るのがちょっと心配。それで、切ったあとには腐葉土をまいてみることにします。 2011/01/21


お正月早々、断食となる

新年あけましておめでとうございます。今年のお正月はカレンダー的にも短く「あっ」という間に過ぎていったような。

まして、わが家は家族5人の誕生日がすべて年末年始とお盆の間近にかたまっている盆暮れ正月家族でして、今年もクリスマス→2番目の子の誕生日→正月→1番目の子の誕生日というハードな日程をやりました。2人とももう成人ですので最近は誕生日もゆるーくなつていたのですが、今年は2番目の子が家を出るので、またどーしたことか2人とも今年は恋人がいない状態のお正月となってしまいましたので、何となく家族で集まってゴロゴロするお正月となりました。

そんな中、こってり気味の食事が続いたためか、私は3日の夜に突如消化器が停止。電源落とされたように運転停止され、一晩七転八倒したすえその後2日間自然に白湯、お茶、塩しか喉を通らない断食状態となってしまいました。血圧もドドッと低下し、何が起きたのかわかりません。

めったにないことですので、「私、今日一日100歳のおばあさんになる」と言って窓辺でひなたぼっこしていたら、とても気持ちよくなってきてものすごい長時間眠りました。

治った今は、正月ぶとりならぬ正月断食でしたので、ありがたいことにたいへん快適になってしまっています。復食はお手のものでございます。10倍がゆ、おみそ汁の上澄み、お野菜の煮たもの・・・(しばらく空っぽだった胃にこうしたものをいただくのが世の中の食べ物の中で一番おいしい)。

何だったのでしょうか?わかりませんが、ともかくスッキリでたきのでよかったのだろうか。

間もなく再び三連休となるのでここでゆっくりしたいものです。

その前に、今日は三番目の子のお友達が大挙してやってくるというお泊まり会なのですが! 2011/01/06


冬至の日に高尾山へ

今年1年の仕事をふりかえるといくつか新しいことができたような気がします。

ひとつは盛夏に開催したカンガルーケアの講演会。周産期医療全体の一部としてNICU(新生児集中治療室)の取材はしてきたものの、お産を赤ちゃんの側からじっくりと見ることができたのは、私にとって初めてのことでした。初めての新生児関連の会でしたのに、新生児医療のそうそうたる先生方が来場してくださり、あるいは海外から情報提供をしてくださり、先生方の情熱に胸が熱くなりました。

また婦人科にトライ、の年でもありました。頸がん健診にさまざまな論争がありましたが、私も頸がん予防の実情を取材して日本の予防医療の遅れに驚きました。高齢出産が増える今、妊娠したら、ぜひとも知って欲しい「女性医療」の知識。いや若い女性だって、現代は健康が早くからおびやかされていることを20代の子を持つ身としてはつくづく感じています。来年も引き続き、女性の健康の全体をやってみたいと思っています。

さて私は、師走の慌ただしさの中でいきなり小休止となる天皇誕生日という祝日が大好きなのですが、今年は冬のお日様とたっぷり触れあいました。マスコミ関係者にもファンが多い山梨のほったらかし温泉というところで、山頂のお湯にて冬至の翌朝の太陽を浴びてきました。

また前日にも休日出勤続きだった夫に代休をとってもらい、この日は以前から静かな平日の高尾山へ行く計画を立てていました。

薬王院に到着し、山門をくぐって本堂に。そこで小さなろうそくに火をともすと法螺貝の音が近づいてきて、ちょうど御護摩が始まりました。

山のお堂にお経が響き始めるのをあとにし階段を降りかけると、半ばにある一本の大きな杉の木にまっすぐ陽があたっていて、その木肌からもうもうと水蒸気が立っていました。朝まで降っていた雨が、また広い空に帰っていくところでした。

木肌にそっと両の手を触れると、しっとりとして、それはあたたかく、木も私も生きているものどうしだという共感でいっぱいになりました。階段を降りて見ると、この木にはしめ縄がかけてありました。ご神木だったようです。

この日の朝はREBORNブックサービスのしほっちのお父様の弔報に接した日でもありましたが、遠くからお祈りさせてもらいました。

この木には、また会いに行くと思います。

思えば、私の父は来年30周忌かもしれません。年末の墓参で石に書いてある数字を見てこようと思います。メモリアルというだけあって、お墓ってすごいメモ。
 2010/12/24


「はじっこ」が好き

落ち葉の季節も、だいぶ大詰めとなってきました。今朝は大雨で、それがあがって朝日が差したとき、この10日くらいで一気に葉を落としたさくらの枝があまりにもきれいだったので撮ってみました。

でも私は落ち葉を掃く仕事はあんまり好きではありません。大変というのもありますが、コンクリートの道や人家の周囲に落ちたというだけでゴミ扱いされる紅葉がかわいそうだから。紅葉の名所はお金を払ってでも行くものなのに、生活空間の紅葉はせっせと消去しなければならいのはなぜかなあ・・・そんなことをブツクサ思ってしまうので。

さて師走に入り、カステラでも何でもはじっこが好きな私は年末という部分も大好きで、うれしいのです。やりたいことや読みたい本、行きたいところ、会いたい人・・・がいっぱい。

先週末は京都の足立病院が開いた硬膜外麻酔分娩を考える会でコーディネーターをさせていだたきました。この問題は来年の大きなテーマのひとつですが、だいぶ頭の整理になりました。また一瞬でも東京を離れることは私にとってかなり効くリフレッシュです。 2010/12/03


蜂に刺される

夏も駆け足で過ぎ去っていく気配。

夏の終わりを、野田聖子さんの妊娠で急にあわただしくなりながら過ごしています。「日経ウーマン」の記事、週刊誌や新聞へのコメントなど。私はスタンスとしては、『私は、産みたい』の一読者として野田さんのエネルギーなら大丈夫では、と思うので今回のことは応援したい気持ちでいます。

卵子提供は、年齢に左右されない体外受精ができるという、高齢妊娠の方には夢のような方法です。しかし、他人の卵子をもらうということはやはり最後の手段となるため、産後は精根尽き果てる方がいるということは数年前からよく耳にすることです。たとえ経済事情が許しても、誰にでもできることではありません。

不妊治療は、どこまでやるかはご夫婦の自由。排卵日を特定してもらうこと以上はしないという方もいて、それもひとつの勇気ですし、沢山の答が許容される社会であってほしいです。

さて写真なのですが、今年二つ目の蜂の巣です。蜂の当たり年でした。実はセミも蝶も何もかもという感じなのですが、ともかく虫が多い。

ひとつ目は、5月ごろ見つけたアシナガバチの巣。落としたいと思いながら、女王蜂が一生懸命守っているのを見ると職業柄ついつい仏心が起き、放置していました。ホントにはじめのころは何も悪さをしない雰囲気で共存していたのです。

それが8月なかごろ、にわかに集団が大きくなり、5月からずっと見ていた私には何か胸騒ぎがするようになり、「こわい」という3文字が頭に浮かんだその朝、予感は的中して二箇所刺されてしまいました。あっという間のできごと・・・

もうこわいので、業者さんをお願いし、家族一同居間からガラス越しに見守る中、蜂退治ショーが繰り広げられました。虫取り網を巣全体に慎重にかぶせた上で、スプレーを一吹き。あとは巣をはずし、帰巣してくる蜂を虫取り網で次々に捕獲。お値段は二万円也。再び巣ができた時の再出動保障として14日のアフターサービス付。

約100匹の集団と言われました。秋口、集団が大きくなる頃、蜂は気が立ってくるのだそうです。次の女王蜂が生まれる時期だとも言われています。

ほっとしたのもつかの間、その後、子どものお友達が遊びに来て第2の巣を発見してくれました。また蜂退治マンに出動を要請。

そしてまた、今日、第3の巣が発見されました・・・いつまで続くのでしょう? 2010/08/29


イベント終わって、お盆休み

周囲にお休みの方が多くて静かな今週。そろそろお盆休み体制ですね。

そして、きょうはすばらしい青空です。皆さん仕事がお休みで、きのうは西日本に台風も来たのでこんなにきれいな空なんでしょうね。元ちとせさんのCDタイトルで知った「はなだ色」とはこの色ですね。まさに。

わが家は夫はお休みをもう終わってしまったので普通に出社し、社会人2年生の長女はお休みを満喫しています。今朝は長女と末娘と私の3人で、15分くらいでしたが朝ヨガしました。

8月8日にアジアやアフリカで母子保健プロジェクトに携わっている永井周子さんをお迎えしてREBORN講演会「これからのカンガルーケア」をいたしました。私にとって久しぶりに自分が企画したイベント。ありがたいことに予備席を出してぎりぎり、ひやひやするくらい沢山の方のご来場を全国からいただき、熱い半日となりました。

『安全なお産、安心なお産−「つながり」で築く、壊れない医療』で新生児の先生たちとのつながりが広がり、安全性それも赤ちゃんの命のはかなさというところに気持ちが行ってこのイベントを企画しました。

お産を終えるとお母さんは巨大な開放感に満たされますけれど、そこからしばらくは赤ちゃんには肺呼吸への大転換に慣れていく時間です。米国ではこの時期に特に手厚いアセスメント体制を敷くガイドラインを産婦人科と小児科医の学会が合同で作っていて、transition care(移行期ケア)と呼ばれています。この時に人がいないことのリスクが、すなわちカンガルーケア事故報道の根っこであることはほぼ明らかと思われます。

ずっと以前に聞いた話ですが。ある女性が自宅出産をして、そのあとひとりになってしまう時間があって、その時間がとても怖かったんだそうです。それは「誰かが赤ちゃんを取りに来る」という恐怖だったのだそうです。彼女は本能的にリスクをとらえていたんですね。それで、大事に大事に赤ちゃんをかかえていたのだそうです。

いつから女性は赤ちゃんの命を人にゆだねるようになったのでしょうか。今は助産院で産んでも、やっばりどこか専門家に頼って自分1人で守ろうとする人なんかほとんどいないですよね。

私は医療システムとか科学的根拠などについて書くことも多いですが、原点を思い出すというか、そこも大切だとよく思います。親も、何かあったら何よりもつらく感じるのは、自分が守れなかったという痛みではないでしょうか。 2010/08/11


“水都”大垣のさくら

愛知県知立市「よいお産の日」というイベントで講演に呼んでいただき、さくら最高潮の東海道を車窓から楽しみながら行ってきました。この地域の基幹病院で師長さんをされていた助産師さんが助産院を最近開業され、呼んでくださいました。赤ちゃん連れのご家族も多く来場されてなごやかなイベントでした。

そしてその前日は、名古屋から東海道本線で足を伸ばして岐阜県大垣市に行って来ました。この静かな城下町は、私が21歳の時に死んだ父のルーツです。行くと河合さんが大変多いです。都内とは逆に河井さんとか川井さんはあまり見かけず、河合さんです。

父は大垣市郊外の築捨という所に育ち、田んぼの中で、家にあった航空便に張られていたフランス切手の美しさに魅せられて仏文学の道を志し、当時は毎日新聞社の場所にあった東京外語大学に進学して東京の人となったそうです。

父はこの東京外語で「ごんぎつね」を書いた新美南吉氏と親しくなり、父の死後、新美さんから父への書簡が多数見つかり、大阪の児童文学館に寄贈されました。築捨の家のお蔵にあったのです。最近、この書簡が、新美さんの故郷・愛知県半田市にある新美南吉記念館に移されることになると聞きました。大阪が財政立て直しのために児童文学館を縮小するためで、ありがたい決定をしてくださいました。

そんな知らせを受け取った矢先でしたし、春休みなので末の娘も連れて大垣に墓参に行ってきました。私はひとりっ子なので、たまにこんなこともしておかないと、子どもたちは自分のルーツがまったくわからなくなってしまいます。

かく言う私も、父が生まれ育ち、叔父がお蔵で書簡を発見したという家が築捨のどこにあるのかわかりません。叔父も亡くなってしまいました。父系統は二代続きの高齢出産で子どもの数も多くなく、私が古い話に興味を持つ前にみんないなくなってしまった感じです。

しかし、過去は必ず時間が押し流していくものです。大垣の人のメンタリティには、それが特に色濃くあるように思います。

大垣のシンボル、それはすべてを流すもの、水です。古くから湧水が豊富な町で、今も市は湧水を大切に整備していてたくさんの人がペットボトルに水を汲みに来る神社もあります。また、ここは古くから水路が発達して東の国、西の国が交わる交通の要所でもありました。

その一方では川がたびたび氾濫し、築いてきたものすべてを失う経験をしてきた町でもあります。大洪水では、お墓も流されてしまうそうです。だから「固執」をしないのです。仏教の盛んな所でもあり、父にも諸行無常の哲学は明確にありました。

私はお産でも「自然か医療か」というようにひとつの見方に100%浸って満足することは決してできないのですが、大垣に来てみると、そんな自分の考え方は、この、めったに来ない町の歴史と遠くからつながっている気がします。

大垣で過ごしたこの一日、さくらが最高の見頃でした。水路を覆うように続くさくら並木を散歩しました。柳の新芽も美しくて、素晴らしい一日でした。

<写真> 汽車の時代になるまで、この水路はたくさんの船が行き交い城下町は活況を呈しました。今も港の灯台は残り、その下には船が一艘浮かべられています。この港で松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を結び、船に乗って伊勢詣りへ向かったそうです。 2010/04/03


リサイクル・ラッキー

充実した春の連休でした。連休初日は、ずっと車に積んで持ち歩いていたリサイクル品をついに市のリサイクル事務所に持っていくことができました(近所のリサイクルショップに持っていこうと思っていたのに、行くといっつもあいていなかったのです)。

すると、その事務所で、まさにこんなのを購入しようと思っていた!というデスクを発見。メインの机の横に置いて、プリンターを置いたり、最近少しテープ起こしを手伝ってくれる娘がすわったりできるような横長のシンプルなデスクが欲しかったのですがまさにジャストなお品物でした。家で組み立てようとするとコクヨ製だとわかりました。

おかげで仕事部屋の床を占領していた紙の山にも手が着き、整理することができました。新しい本の追い込み体制に・・・やっとなりました。一時はもう捨ててしまおうかと思ったリサイクル品でしたが、ひと粘りしてよかったー。リサイクルの神様が微笑んでくれました。家具のリサイクル品を買ったのはものすごく久しぶりです。学生時代は救世軍のバザーなどに出かけて外国人家庭から出る不思議なリサイクル家具に凝ったこともありましたが。

リサイクル事務所のまわりにはまだ農地がけっこう残っています。直販所で一束100円の葉菜を買い込みました。うち、うさぎがいるんです、と言ったら名称不明の菜っぱイロイロや小さなブロッコリーをたくさんおまけしていただき、なんだかうれしく、とってものんびりと、暖かい春風の中を帰りました。

さてさて、その春風はますます強くなりまして・・・この夜は、地方から飛んでくる先生とインタビューの約束をしていたので出かけたのですが、フライトが遅れ、23時開始の取材となりました。お疲れの所、ご協力をいただいて感謝です。

これも今年の春風の思い出になりそうです。最終電車に遅れまいと走ったりしたら汗だくになったりして、ホントにもう春です。 2010/03/20