お母さんのお顔の世界

「11月3日@ウィメンズプラザ」という日にちと場所は私らにはgood old な感じですが、今年の此所はモーハウスさんによる堀内 勁先生の大変濃い講演会が開かれていました。
「僕は、お母さんのお顔の世界に入っていく。
お母さんのお顔と目・鼻・口は空・雲・それに水。
お母さんの活力は元気は空気と光。
いつもは光も空気も、そこではしゃぎ回っている・・・」
母子相互作用の世界を深く探求してきた堀内先生の深い学識、そしてアーティスティックな表現の数々に時はあっという間に過ぎていったのでした。今のママたちの大きな関心である父親の育児についても、だんだん妙なことになってきた平等主義の行きすぎをみごとに論破してくださいました。 2015/11/08


お母さんが一日三千円で泊まれる家

3日間の福島取材、帰路につきました。昨晩泊めていただいたのは、福島県助産師会が、避難所にいる妊婦さんや赤ちゃんの保護のために立ち上げた会津助産師の家おひさまです。
今は、母乳トラブルを起こしたお母さん、家族の協力が得られないお母さんたちの駆け込み寺になっていました。
ここの際立った特徴は、誰でも利用できる1日三千円という他県の産後ケアセンターの1割か数割程度の破格と言ってよい利用価格です。
もう少し高いとお母さんたちはガマンしたり母乳をやめたりしてしまうと助産師さんたちは言います。それはそうですよね。今、日本では母乳ケアがほとんどない出産施設もたくさんあり、母乳が出なくて大変で「子どもは二度といや」と思う育児も「当たり前」のことだと思われています。
福島では、非常事態が、産後のお母さんたちの実態をあぶり出したのです。しかし、震災後の「非日常」の中にしかない報道合戦や興奮状態がない日常の中で、場は保たれるのでしょうか?この場を守るために、福島県助産師会は必死に動いてきて、災害時の経済的支援が終わると福島県の少子化対策予算を何とか獲得しました。
利用していったお母さんたちの書いていったノートを見ると、ここの生活で心も身体もゆとりを取り戻し、母乳が湧いて帰宅することができた様子が手に取るようにわかりました。
産後ケアは時の話題ですが、高額な産後ケアがほとんど。経済的ゆとりのある都心部のママたちのホットな話題にすぎない気もします。そこが盛り上がるほど、ほんとうに必要な人は存在さえ発見されず、ケアは当然届かないというもどかしさが募ります。
福島県にできたことは他県でもできるはずだ、と県助産師会会長の石田さんは言います。 2015/10/25


新美さんから父への葉書

父と新美南吉さんの交流を紹介してくださった展示に行ってきました。新美さんから父に来た手紙のレプリカも一葉展示されていました。土曜日には文学座の八十川真由野さんによるごんぎつね、父に宛てた詩などの朗読会があったので、調査に当たっている大垣文化事業団の鈴木達雄さんが解説会もしてくださいました。中日新聞が西濃版で大きく父のことを報じてくれたので朗読会も満席となって、ずっとひとりで父の墓参をしてきた私には本当にうれしい日でした。
そのあとは鈴木さんたちに河合家のルーツへ連れて行ってもらったのですが、これは、またの機会に書きたいと思います…。この度は本当に大垣の方々に感謝でいっぱいです!! 2015/10/19


父の生家

大垣文化事業団の朗読会と展示解説が終わったあと、事業団の鈴木さんに無理を言って父の生家に連れて行ってもらいました。実は、私の父は自分の生家に、私を連れて行くことはついにありませんでした。

しかし、それでは子どもが自分がどこから来たのかわからなくて困るだろう、と、父の死後に、父の弟(私の叔父のあたる人で私が所在をわかっていた父方の唯一の肉親)が、簡単に案内してくれたことがあります。しかし、二十歳そこそこだった私は住所を記録しておくこともなく「ふーん」と思う程度で帰ってきてしまい、その後に叔父も亡くなるとそこがどこであったのかもわからなくなっていました。

しかし父は、土手のある川がすぐそばを流れ、田んぼが続いていた自分のふるさとや、自宅のことをたくさんの随筆に書き残しました。県人会の会誌や、自分が仕事で編集していた専門誌の埋め草に載せていたのです。父が書き直したものはおもに故郷のことと新美南吉と過ごした東京外語時代の思い出です。

父は田んぼの真ん中の中学から東京外語大学の進学を志し、どういうわけか入試に成功し上京。当時外語があった神田界隈で南吉に声をかけられ、毎日行動を共にするようになりました。そして新美さんがかかった結核をもらってしまいます。

卒業の直後に結核という当時の不治の病を宣告された父にとって、故郷は闘病の地でもありました。闘病中に新美さんが愛知県の半田からお見舞いに来てくれたようです。その時は新美さんの方がよかったのでしょう。しかし新美さんの病状はその後悪化して、父に、ひと思いに死ねる薬を送れと書いてきて、それを父が断るとすぐに「君と絶交する」という手紙が来たそうです。それが父と新美さんの交友の終わりでした。その数日後に、父は新美さんの兄弟から黒枠の葉書をもらいました。

もう君の字でないことが悲しかった

父はそう書いています。そして、その父は生きのびて東京に帰ってきて母と結婚し、44歳の時に、当時としては孫のように年が離れた私が生まれることになりました。父が出たのは、腹違いのきょうだいの間がうまくいかなくなったためのようです。

私は父が死んだときの父の遺稿集を編みましたが、ラストは子ども時代の父が堤の道をお母さんを追ってひとりで歩いて町に行き、夜が暮れてからお母さんと叔母車を引いて帰ってくるという短編にしました。

もう、ようさりになってしまったん

父のお母さんはそう言って、父の手を引いてゴトゴトとおば車を押していきました。父のおかあさんは、大垣の中心にある、皆が湧き水を汲みに来る八幡さまのそばに実家があり、そこに用事に行っていました。

その堤の道に上がったとき、私にこみ上げてきたものは、ここだ、こここそが父の原風景だという揺るぎのない確信と、やっとここに帰ってくることができたという喜びでした。懐かしくて、懐かしくて涙が止まりませんでした。それは不思議なことに、限りなく「記憶」に近いものでした。
2015/10/17


父と「ごんぎつね」を書いた新美南吉のこと

明日から、『ごんぎつね』で知られる童話作家・新美南吉の展覧会が岐阜県大垣市で始まり、その親友として私の父も紹介されます。
大垣市出身の父は新美さんと大学でかなり親密だったようで、父は新美さんの結核に感染したようです。2人は卒業後しばらくそれぞれの郷里で病に伏せて、死の不安と共に生きながら新美さんが亡くなるまでに何十通という文学談義の手紙を交わしました。父の死後に、その書簡の束が発見され、南吉研究に新局面が開けたとされています。
しかし父には、もらっていない返事が一通ありました。それを父が読んだのは、巽聖歌によって編まれた『墓碑銘』という詩集が出たのを書店で見つけた時でした。「手紙」と題された詩として、父はこの時、二十年前に死んでいる親友から返信をもらいとても嬉しかったようです。
17日(土)には南吉の「ごんぎつね」「花の木村の盗人たち」と詩「手紙」が文学座の八十川 真由野さんという女優さんによりプラネタリウムで朗読される「星空朗読会」もあります。
私も行こうと思います。そして、二十歳そこそこで死別した父の、私が知らない若き日を感じてきます。お近くの方、よろしかったら大垣へお出かけください。湧き水のとてもきれいな城下町です。

●コスモドームギャラリー「新美南吉展」
http://www2.og-bunka.or.jp/event/data_554.html
●星空朗読会
http://www2.og-bunka.or.jp/event/data_546.html
場所:大垣市スイトピアセンターコスモドーム
2015/10/10


東向島のお産婆さまが逝く

今も下町の情緒を残す東向島で親子二代のお産婆さんとして活躍され、一万五千人の赤ちゃんをとりあげた福岡光子さんが93歳で亡くなられました。
ほとんど人が家で生まれていた時代のお産婆さんが何をしていたか、その時代を頭や観念ではなく、リアルに知るだけに私の青森での体験を誰よりも理解してくれた方でした。
27年前に私が書いた、地域のお仲間と一緒に「お産婆さんの知恵」座談会をさせて頂いた記事(『P.and』1988.6)をUPします。「くの字がふたつ」という添い寝の教え方とか、仕事に出て行くときの母乳のやり方とか実践したの思い出します。そのほかにも手がガタガタ震える非常時でもさっと子どもをおぶえるのが兵児帯なんだとか、えりをつけて和服として産着を着せる方法とか・・・しばらく忘れていましたが今見返すと、本当にひとつひとつが産み育てながら働きに働いてきた女性から新しいお母さんへの愛しい子育ての知恵です。
ありがとう。福岡先生。お名前のとおりの光り輝く笑顔と私の仕事のスタートに大きなパワーとをいただいたこと、いつまでも決して忘れません。 2015/10/04


『ひとびとの精神史』が出ました

松田道雄先生について書いた「松田道雄 母親たちとともに」が掲載された本が出ました。
『人々の精神史 第三巻 60年安保 1960年前後』(岩波書店)
むしろ次の巻の「第四巻 東京オリンピック」の話だとは思うのですが、こちらに収まりました。約300ページの本のわずか30ページくらいなんですが、私にとっては、自分の「ものを言いたい!」という気持のルーツに立ち返ることができた実にありがたい機会となりました。
今回育児については思いっきり書けましたので、今度は女性や家族、老いといった松田先生の他のメインテーマについても取り組んでみたいものです。
◆『人々の精神史 第三巻 60年安保 1960年前後』(岩波書店)
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%AD%E3%80%87%E5%…/…/4000288032

2015/09/28


放送大学で心理臨床の講義に出演

2016年度放送大学の「心理臨床と身体の病」という科目で一コマゲスト出演させていただきました。聖マリアンヌ医科大学で、喪失ケアなど周産期の心理臨床という分野を切り拓かれた臨床心理士・橋本洋子先生が担当の「生殖医療、出生前診断と心理臨床」という講義です。
テイクは、台本を橋本先生と作り込んでいたにもかかわらず時間内に納めるのが難しく(なにしろ『卵子老化の真実』と『出生前診断−出産ジャーナリストが見つめた現状と未来』の内容プラス橋本先生の心理のお話を43分に納めるので!)終わった時はけっこうな達成感が。
でも、煮詰めた分、橋本先生に助けられた分、このテーマについてまたひとつ歩を進められたような気がします。
それは、出生前診断のような矛盾に満ちた葛藤をいかにありのままに受けいれるかということ。出生前診断は取材を始めてからずっとその階段を一段ずつ上ってきた気がしますし、ある意味では階段を降りてきたという方が当たっているのかもしれません。
今、日本のNICU(新生児集中治療室)には、総合周産期母子医療センターの場合、臨床心理士かそれに類する人を配置する努力義務が課せられていて、約7割の施設で達成されているそうです。そこで心理士さんたちは、相談受けます、とすわっているのではなく、すべてのお母さんに話しかけ、赤ちゃんと過ごす時間に寄り添うとお聞きしました。
出生前診断との関わりでは、検査で陽性とわかった妊婦さんと遺伝カウンセリングのあとにお会いすることが多いそうです。
doing を役割とする医療者に対し、何もできない人としてbeing「ただ、そこにいること」を役割とし、まとまりもなくただぽつぽつとこぼれてくる言葉を受けとめる器になるという心理士さんたちの仕事。
橋本先生は、doingが一杯の空間であるNICUに入室した時「何もできない人間がここにひとりいることで、お母さんたちの心に何か良い効果が現れるのでは」と直感的に感じて、それが今の仕事のインスピレーションとなったとあとで話してくださいました。この感覚は、一般人としてすごくわかる気がします。
橋本先生のシリーズ講義は全部で三時間あり、妊婦さんに関わる方にはぜひ見ていただきたい・・・けれど、放送時間はまだわかりませんので、またお知らせします! 2015/09/25


シルバーウィーク

昨日から仕事してますけど、世間が安らかなのでとっても落ち着いた気持ち。シルバーウィークっていうネーミングがいいな。ゴールデンと言われると気合入りすぎる。銀でも十分にきれい、いや、今みんなが欲しいのはむしろ銀の美しさなのかも。
早朝カフェで、これからエッセイを入稿するので見本に頂いたとてもシックな丸善のPR誌『學鐙』を読みました。とっても面白かった。中にはイラストさえないけれど、表紙に、ぽん、ときれいな建築の写真。表紙と中の紙質やフォント、字間などがとてもきもちいいのです。刺激的な印刷物に疲れた目と心が休まります。字だけでこんなに楽しめることにも嬉しくなります。 2015/09/23


秋田で助産師さんたちと

日本助産師会北海道・東北地区研修会。ふたつの講演をお受けして、秋の風が吹く秋田の町で2日間ゆっくり北の町の助産師さんたちと過ごしました。私がお産にはまるきっかけをいただいたのは青森の今は亡きお産婆さんなのですが、その方をよく知る方にもお会いすることができました。
そして懇親会に現れたなまはげはめちゃくちゃハイレベルな、子ども返りできちゃうくらいな怖さ!2015/09/08