ママ受験生は大変

先日の日記で産んだ女性が助産師になるということを書きましたが、それをやり遂げた方にインタビューをする機会がありました。ファン助産院のイメジェリークラスへ見学に来て頂いたこの方は、第一子を高齢出産で出産されたあと、看護師から助産師になりました。

受験勉強は、時間を作り出すことが本当に大変だったそうです。時間と、そして勉強する場所がない! これは、私も家で仕事をしている人間なのでありありと思い出されました。子どもが小さいとき、同居していた母が精神的に不安定になってきたとき、家にいるのは仕事で外に出ている時間の何倍も、何十倍も大変でした。

結局、誰かが家を引き受けてくれる隙間を見つけて「逃亡」します。ところが、逃亡する先がありません。カフェやファミレスを流浪したりしました。最初の本の『お産選びマニュアル』はかなりの部分をファミレスで、時々お店変えたり、気を遣いながら書きました。

助産師学校を受けるお母さんたちも同じ境遇です。夜は行くところがなくなって駅や街頭のベンチでも勉強したという彼女。日本は、なぜ大人を勉強させてくれるところがないのでしょう。非常に納得できないことに、図書館の本を読む以外の目的では座るべからず、と堂々と書いてある公立図書館まであります。

学生さんだって、勉強に集中できる場所がほしいはずです。学力低下というならば、世の中には勉強したくても勉強する環境がない人がたくさんいることに気がついて欲しいです。

もうひとつ言えば、日本の高等教育の学費はもうクレージーとしか言いようがありません。最も学費のかからない小・中学校の子どもたちや、私立はかけ離れて安い公立高校が無償化されていく「ばらまき」には、中学生の親ながら大きないらだちを感じます。

大学や専門学校のレベルでは、医師や助産師になる学校も含めて、学費のために夢を断念したり、退学したりする子たち、社会人たちがいることをどうして誰も何も言わないのでしょうか。高等教育が今の日本の生活を支えているのに、いまだに個人が勝手に欲しがる贅沢品とでも考えられているのでしょうか。 2010/03/15


上田市産院存続の責任

『安全なお産、安心なお産』の内容を話してほしい、と長野県上田市の育児グループ「お産育児ままネットワーク パム」からお申し出をいただき、3月2日に行ってきました。上田市産院という「赤ちゃんにやさしい病院」が大学病院の医師引き上げにより閉院となりかけ、存続のための署名運動が起きたところです。

今回呼んでくださった方たちは、かつて、その署名運動の中心でがんばった女性たちです。上田のお産事情には、その後いろいろなことがありました。二次施設であった長野病院から昭和大学が産科医を引き上げると言うことが起き、上田の妊産婦さんは二次医療が近隣にないと言う不安に状態に陥っています。

その一方で、上田市産院は長野病院の隣接地に移転、新築が決まっています。これは上田市の署名運動として最大であったとともいわれる母親たちの運動が市政を動かした結果と考えられます。

ここで上田市産院が本当に発展するために、そして上田市産院で産む、産まないに関わらずこの地域のお産全体が二次、三次医療にも守られているという安全性を確保するために、今、署名運動のOB女性たちが動き続けています。

私が話しに行って上田以外の地域の事情や解決案、学会や国の雰囲気などを紹介することで新しい発想を起こしてもらえたら。そんな気持ちで行きました。とてもうれしいことに上田の開業の先生も来場してくださり、皆さんの手作りケーキや名産のりんごなど囲みながらのディスカッションタイムに、上田がおかれている現実についてわかりやすく伝えてくださいました。

上田には、これで5回目くらいでしょうか。定点取材なのか、ご縁なのか。

女性たちも本当に息長く、がんばっています。「産院を存続させた責任があるんです」パムの斉藤さんのこの言葉には、署名に関わった女性たちみんなの気持ちがよく表れていると思いました。

この日、助産師になることを本気で考えていることをカミングアウトしたお母さんがひとりいました。市民から産科医療の担い手を出していくことは絶対に大切です。

「あの時、ママたちが上田市産院を守ってくれた」と次世代から言われるようになるといいですね。私はきっとそうなると、上田の女性や医師の方々を信じています。 2010/03/14


『きみにあいたい』のこと

前回の、あの反省は一体何だったのか。と政治家に詰め寄るように自分に詰め寄りたい日記の空白でした。時々来て頂いていた方には誠に申し訳ないことをいたしました。もう今年も4分の1が終わろうとしております。

今年は今まで何をしてきたかと言いますと、年明けに、まず『きみにあいたい−あかりが生きた239日、そして12時間』という講談社文庫の解説を書かせて頂きました。あかりちゃんはシスティックヒグローマという予後の大変厳しい病気を妊娠初期の超音波検査で胎児診断された赤ちゃんです。多くの方が中絶としう選択をするような大変な病気なのですが、お母さんのsamoさんはぎりぎりまで生存の可能性にかけることを決めて、papaと共にその記録をブログに綴り始めました。この本は、その文庫化です。

超音波検査の発達で、胎児の病気が妊娠のごく初期からわかることが増えました。それは決して少なくはないハイリスク妊婦さんの妊娠ライフを大きく塗り替え倫理問題ともなっています。しかしsamoさん夫婦のブログは「こうあらねばならぬ」というものがなく、親としての素直な気持ちを綴っていきます。

samoさんご夫婦には、編集者さんに頼んでお会いしに行きました。駅前でお昼ご飯一緒に食べました。samoさんは次のお子さんの予定帝王切開を間近に控えていらっしゃってとても大きいお腹をしていました。解説を入稿したとき、帝王切開が無事に終わったというニュースをもらい、本当にほっとしました。ハイリスクの妊婦さんのお産は、本当に命がけです。そういうお産もたくさんあるのだということは忘れたくありません。

ブログはとても読みやすいので、私が「読みなさい」と言ったわけではないのに、いつの間にか家族中で読んでいて、まだ生まれていない赤ちゃんに対するsamoさんの愛情について話し合ったりしています。 2010/03/14


年末の想い

中一の娘が学校へ履いていく新しい靴が欲しいというので今履いているものを持ってこさせたら、それは見たことがないくらいぼろぼろの靴でした。部活で使ってきた陸上シューズです。とても丈夫に作られているので毅然と靴の形を保っているのですが、よく見るといたるところがちぎれ、破れて穴だらけでした。

毎日の部活をほとんど休むことなく、日に何キロも走り続けてきた彼女。こんなに走ったの、つらかっただろうな思うと泣けてきました。好きで走っているのだからそんな風に思うことはないのだけれど、親というのは余計なことを思うものです。

知らない間に子どももがんばっていたことがわかりましたが、私も今年はけっこうよくやったと達成感ある12月を迎えています。何とか今年やるべきことをちゃんと終えて清々しく新しい年を迎えたいものです。両親の墓参とか人並みに元旦に着くように年賀状を投函するというのを一度やってみたいとか、大変正しいことを考えています。そして今年の反省、まずはこの日記を書いた日が少なすぎ!でした。 2009/12/16


『安全なお産、安心なお産』が手を離れていきました

今年は、大きくとらえればこの一冊を書いたと言うことに尽きます。岩波書店から10月末日に出る『安全なお産、安心なお産−「つながり」で築く、壊れない医療』です。

この本が出版が決まったのは今年の2月でした。企画書を書いていた頃の日記を見ると、こんなことが書いてあります。
「岡井先生(昭和大学産婦人科教授で今放映中のTVドラマ「ギネ」の原作者です)のところで入局者が増えている。大変だ、と騒ぐ時期は終わり。<つながる><分かち合う><信じ合う>肯定的な言葉を探すこと。明るい光を入れて、崩さなければならないものを明らかにすること」

取材は時間の巻き戻しから始めました。NICU(新生児集中治療管理室)も超音波もないころのお産はどんな風だったのか。市民は病院を妄信するしかなかった時代はどんな状態だったのか。さらに避妊も中絶もない多産多死の時代、女性が素手で命に対して向かい合っていた時のことも、限りはありましたが考えてみました。

そして、そこに現代の産科医療、新生児医療の技術革新がどのように訪れ、普及していったか。その輝きは、どこでどうして影を作り出すに至ったか。そうした歴史の流れをたどってみました。

技術革新の進むままにひた走ってきた現在の周産期医療は、気がついたら人もお金も、政策もついてきていない状態になっています。加えて女性の生活や身体も大きく変わって、産むことがどんどん大変なことになってきました。

お産を「何て面白いテーマだろう」と思って20年ちょっとやってきたので、この危機的な時代に何か役に立ちたいと思ってこの本を書きました。各地に講演に呼んでいただくたびに、会場のある町から夕方ゴトゴトとローカル線に乗って足を伸ばし、1〜2泊の取材をして帰りました(何しろ会いたい方は各地にいるのです!)。呼んでくださるのは私の何かを読んでくださった方ですから、まさに読者の方に支えて頂いている格好です。

舞台裏を話せばきりはありません。「見たい、知りたい、感じたい」とさまざまな場をお訪ねしましたが、申し訳ないことにこの本の表面には描けなかった場もあります。大学医局が学生を対象に開催する入局説明会、ヘリコプター搬送、出生前診断による中絶のこと、そして重症心身障害児施設にも行って、入所中のお子さんと遊ばせてもーいただきました。今回は行間に読みとっていただくにとどまってしまいましたが、私にとってどれもとても大きな体験でした。いずれ、ゆっくりと取り組める日が来れば・・・と思っています。

たくさんの方に「書かせてもらった」本でした。取材したいと思っていた方と偶然会えたことも多々あって、たくさんの方の生の声が出てくる本ですが、私のこの時期の出会いの記録でもあります。

当分続くかと思っていた母の介護が昨夏突然に終わったということもあり、「仕事しなさい、何か役に立ちなさい」と母に言われているような気もしていました。

そんなわけで、私としては、これまでの仕事の中でも特に馬鹿がつくほど真面目に、損得なくコツコツ書いた本になりました。

ライティングを職業にしている人間として一冊の本の取材にここまで無尽蔵に時間を使ってよかったのかどうかは疑問とすべきで、こうしてすべてを終えた今、反省することが多々あります。一緒に仕事をしている方たちに我慢していただいたこともあり、家族も普段から慣れている彼らとはいえよく我慢してくれたなあと思っています・・・。これからの時代は医療もやみくもに長時間労働をしてはいけないと盛んに言われているわけですが、最後には私も自分についてそれを言い聞かせることになりました。

でも、もらったものは、もう返すことはできないのだそうです。それを負って、明日の自分を変えていきたいと思います。

11月初めには書店に出るようですので、どうぞよろしくお願いいたします。

【写真】 『安全なお産、安心なお産−「つながり」で築く、壊れない医療』第三章「赤ちゃん救命最前線、NICU(新生児集中治療管理室で起きていること」を書き始めるときのプロットです。何十時間ものインタビューや資料から取り上げたい話を切り出し、全体を組み立ててから書き出します。この前後が一番しんどいときで始まりと終わりが快楽、というのが大体の進行パターンです。 2009/10/17


稲村ヶ崎サンセット

昨晩は夕方から1ヶ月ほど前に発売になった『なっとく出産応援事典』の打ち上げをしました。湘南鎌倉総合病院に勤務あるいはゆかりある人を産婦人科部長・井上裕美先生が作ってくれたチームは計五名。師長の長谷川充子さん、元・師長で現在は開業助産師の井本園江さん、元・勤務助産師で今は聖路加で教職に就いておられる小黒道子さんと私でした。

スタートはなんと4〜5年前のことでした。外来に待っている妊婦さんたちに素朴な質問を出して頂く作業からはじめ、とんでもなく多忙な人ばかりのチームは、長い間「本当にこの本は出るのだろうか」という月日を送りました。

みんな忙しくてもこだわりは捨てられないというところがある人ばかりで、「妊婦さんはもっとココが知りたいんじゃない?」「こういう言い方で決めつけになるから、もっとこうしようよ」というような話になったりもします。湘南鎌倉総合病院の医局に併設された図書室の一角で、いったい何度集まったことでしょう・・・。

しかし春秋社の美しき名編集者・篠田里香さんのご尽力により、ついにゴールインすることができました。今春卒業し、イラストとエディトリアルデザインの仕事に就いた娘に表紙と中のイラストを描かせていただいたのもありがたいことでした。共著である分客観視できると思いつつ言うのですが、これはかなりのお得な本だと思います。

井上先生が選んだお店は江ノ電・稲村ヶ崎駅からすぐ、海沿いのレストラン「サンディシュ」。荒れ荒れの海から吹き付ける潮風、そして分厚い雲の中にオレンジを溶かした江ノ島サンセット。

ああ、うれしかった。
本当にすばらしいチームでした。

今書いている本が難しい問題をたくさん扱っていてちょっと疲れ気味であった私でしたが、とってもいい気分転換になりました。夜おそく東京に戻り、24時間営業のドトールに寄って巨大なアイスソイラテを買って帰る。

そして朝まで、今度の本の続き・・・。

今度の本も、出たときのとびきりの喜びを楽しみに、がんばろう。 2009/08/08


素材の山、山です

ともかく取材、取材の春が過ぎ、夏を目前に素材の山の整形にかかっています。当初9月の刊行予定だったのですがさすがに間に合わず、少しだけ時間を伸ばしてもらいました。

今回インタビューさせていただいたのは医師が中心で、産婦人科、新生児科、麻酔科とさまざまです。助産師さんについては『助産師と産む』の情報に安全対策など今日的な話題をプラス。

現代における先進国のレベルで安全なお産を目指すことの大変さ、日本は何につまづいているのか。安全対策の影で起きていることも含め、お産の「安心と安全」について女性目線から取り組みます。

資料ファイルの見出しはこんな感じです。

周産期救急
緊急帝王切開
高齢出産
多胎妊娠
早産予防
胎児診断
超低出生体重児
長期入院
在宅療養
分娩料
女性医師
労働基準法

まだまだあるのですけれど・・・命にかかわるテーマが多いです。

お話の内容が皆さん大変な濃さでして、今回テープ起こしも人に頼まず、コツコツとやっています。 2009/06/25


札幌と稚内の旅

札幌で講演に呼んでいただいて、北海道のお産・新生児関係の方々ととても有意義な四日間を過ごしてきました。

まず札幌に着いて開業助産師の高室さん、札幌の周産期救急システムでコーディネーター第一号を務めた助産師さん・小川原さんとランチ。北大の農場を窓から望むそのお店はめちゃくちゃ居心地が良く、高室さんがシンガーとして活動するハウスでもあるそうです。

その後、札幌市の夜間休日診療所「WEST19」で、札幌の周産期救急システムの取材をさせていただきました。新聞ではわからなかった部分までお話を聞くと、本当によくできているシステムなので驚きました。このシステムの特徴は、連携のすばらしさです。

助産師さんが毎夕、搬送先の病院に一件ずつ電話をして搬送先となる「第1優先病院」「第2優先病院」を毎日決めます。これは「確実に搬送ができるシステムが絶対に必要」という気持ちのある札幌の関係者がつながり、根気強いコミュニケーション努力を続けたたまものなのです。

助産師さんはちょっとした心配の電話相談にも多数乗っています。これは、妊婦さんにも何ともうれしいし、救急外来へ軽症の妊婦さんが行かないための防波堤としても機能しています。

稚内は、初めて行きました。特急で札幌から5時間余り。雪の残る原野をずーっと走る目と突然小さな町が現れました。商店街にはロシア語がたくさん使われているし、利尻富士は間近に迫ってそびえ立っている稚内は、海を向いた町でした。ここの市立病院には、僻地医療に熱意を持つ本当に立派な産科の先生がおられました。

翌朝、ウミネコの大合唱で目がさめました。入院中の妊婦さんにインダヒュー。ここには、島や僻地から入院分娩に来る人がたくさんいます。切迫早産で入院している方にもお会いしましたが、距離が距離なので家族との面会はごく限られます。上のお子さんと増えない寂しさを聞いているうちに、私も、無性に、東京においてきた娘が恋しくなってしまいました。礼文から来ていたおかあさんの娘さんが、私の娘と同じ年頃でした。

私は12歳の娘と4日離れただけ。それでもこんなに切なくなってくるのに、ここで出産する人たちの中には、何週間も小さな子どもと離れる人がたくさんいるのです。薬で陣痛を誘発して早く産んで帰る人も少なくないと聞きましたが、私でもそうするだろうと思いました。

不便なところに住んでいる女性たちは多くを望んでいません。「病院はここしかないけれど、ここしかないというより、ここがあってよかったという気持ちでいっぱい」。

そのたったひとつの病院からは、一番近いNICUまで240㎞(東京−浜松間に相当)。

でも、そこには医師と女性の間にきずながありました。

貴重な経験させていただきました。海沿いの道を走っていく小さな空港から、1日たった一便の羽田行きに乗り込んで帰りました。 2009/04/16


お産のとなりで起きていること

新生児集中治療室(NICU)の取材を始めていて、今週は毎日のように行っていました。産科の取材だけしていていたらわからないな、ということがたくさんある世界です。

早産で赤ちゃんが生まれるということがどれだけ大変なことか–救急車にとってNICUはゴールですが、ご本人たちにはここからがスタートなのだと感じます。生育限界が何週であっても、やはり、お母さんの子宮にいるはずの赤ちゃんを、機械がそのかわりをして育てていくのは綱渡りをしていくようなものです。そして、無事に予定日を迎え、退院していっても、9歳になるまで定期的な健診を続けていくというのですから、本当に長い時間をかけ、ゆっくり、ゆっくりと子どもの成長を待つことになります。

お産という世界から見ていると、ほとんどのお産は元気な赤ちゃんが生まれていますが、ここにはそうしたお産はひとつもありません。

ある病院では、助産師外来を担当する助産師さんが満たさなければならない基準の中に新生児集中治療室での研修を受けていることがふくまれていました。私は、今、その研修を経験していようなものかもしれません。

親子を出発させるための医療はリレーです。不妊治療から産科へ、産科から新生児科へ、そして新生児医療からは小児科へあるいは福祉へとバトンが渡されていきます。ひとりとひりの走者が、自分だけよく走れても意味がないし、自分にバトンが渡ってきたときにどんな試合展開になっていようが自分の役割を精一杯果たすのがチームです。

ただ、本当の走者は赤ちゃんであり、お母さんであり、パパですし、リレーの中身は医学的なことだけではとても決められないし、赤ちゃんが生きた時間の長短でもないように思います。 2009/03/20


ほっと安心の3月です

土曜日の今日、表参道へ多摩美の卒業制作展を見に行きました。つい昨日、大学から卒業決定の通知を受け取り、娘とふたりで見たところ。展覧会を見に行くと、本当に卒業するらしき様子なのでなんだかうそみたいです。いやあ、長かった、本当に長かった(学費を払うのが、です。・・・私には)。

娘の卒業制作は「万歳!何でもない日」というタイトル。実在する85人に取材し、その24時間の行動を時間ごとに1枚の絵に納めていき新聞印刷仕立てにしたもの。私たち家族や親族一同ももちろんかり出されて登場して、娘のお友達たちと共に24時間ごそごそ何かやっているところが描かれています。

思いっきり標準的でない人もけっこう入っているのですが、それぞれにとっては平凡な一日の大集合。親としては、娘がいろいろな人を愛し、共に生きていけそうな人に成長してくれたような気がしました。

ゼミで娘をみていただいた宮崎光弘先生と「盲導犬クイールの生涯」が大ヒットした石黒謙吾氏の対談があったので聞いてきました。「分けると分かる」というテーマで、「分類王」と呼ばれる石黒さんがご自分の発想ツールを語っていただきました。終わってから、お二人とも娘が大変お世話になって来た方なのでご挨拶すると、おふたりはまさしく私と同じジェネレーションのよう。石黒さんは私がカメラマンをしていた時代の『宝島』の愛読者だったということで、私の名前を記憶にとどめておられ、びっくりしました。

帰りに何となく、私にとっては故郷的な町である下北沢に寄り、夫と沖縄料理屋さんで泡盛を飲んだりしました。海の青を表していたのか、それはきれいな青いグラスに入っていた泡盛。その色に見とれながら、ふと口をついて出たのはこんな言葉でした。「なんか、もう心配しなくてもいいみたいね」

彼女はもう、たくさんの仲間や導いてくれる先輩にも囲まれているようなので安心です。私にとって、子どもを3人育てたことは人生最大の仕事でしたが、こうしてだんだんに1人ずつ巣立っていくとなると、自分の仕事をきっちりとまとめあげていきたいと切に思えてきます。

最近した仕事で大きかったことは、産科医療保障制度について、その導入にあたり中心的存在だった岡井崇教授のインタビューをAll Aboutに掲載したことで、沢山の方かられしい反響をいただきました。また今週から、新しい本にとりかかりました。取材の申し込みを始めて来週から取材開始です。 2009/03/07