面白すぎる『マザー・ネイチャー』

最近、出かけなくてもいい日は、仕事時間の1時間を読書にあてている。今、熱中しているのが『マザー・ネイチャー』。今年の5月に出た話題の書だが上・下2冊の厚い本なのでちょっと手が出なかった。しかし、読み始めると、スバラシイ!本当におもしろい。

この本はひとことでいうと、生物学、人類学がこれまでに積み上げてきた生殖についての研究の成果をがんがん紹介してくれる、こたえられない本である。こんな知識を自分で集めたら一生かかっても無理だと思うが、この著者の知性はなんというありがたさ。しかも、笑えるくらい痛烈なユーモアつき。

著者は米国の学者で、3児の母でもあるサラ・プラファー・ハーディー博士。感心するのは、「母親とは何か」の問いに対して大変慎重に答えようとしていることだ。自分の主張にとって都合のいい事実をひろい集めるようなことはしないで、きちんと検証された事実を、サイエンスの手続きを経て提示しようとしている。だから、読んでいてとてもわくわくする−事実の力はすごい。

押し迫って出会った、今年最高の本! 2005/11/24


断食後8ヶ月の食卓

今日はとてもいいお天気、お天気がいいと日記が書きたくなる。んー、でも雨でも書きたくなる。つまり天候について感じ入ると書きたくなるのだが、なぜかしら。

さて、先日、REBORNでは三好が私が3月にしたのと同じ友永ヨーガ学院で断食するということがあり、とてもおめでたいことである。それを祝して、宮下の「スタッフ日記のその後」風に私も断食後のことを書いてみたい。

断食は、その後もずーっと尾を引く。その引き方はすごい。実は、宮下ではないけれど、私は断食以来ご飯、お味噌汁とお野菜がちょこちょこっとあるご飯がベストになってしまった。家族のために肉、魚を毎日使うのだけど、自分のお皿には味見程度しか盛らない。私は作ったのもは必ず味見はしたいので食べるのだけど、食べたあとに「ああ、魚だ、肉だ」と重く感じるものがある。

断食後まもなく購入したキッチン道具が三つある。出刃包丁。これは、肉食をするなら、命をいただいていることがよくわかる料理をしたいという気持ちから。揚げ物をする鉄鍋。新しい油でからりと揚げたものを少し食べるというのが、なぜか好きになって。

そして、『自然なお産献立ブック』著者の岡本さんから教えてもらった十徳鍋のセット。これは新潟は燕市の厚手ステンレス鍋で、ほとんどボウルのようなお鍋。取っ手もガチャリとつくのだけどあまりつけたことがなく、たいてい鍋つかみで掴んでしまう。これにそこらへんにある野菜を切って入れ、塩をふり、そっと蒸し煮にしたようなものを毎日のように作っている。無水料理ができる構造なので軽く圧がかかり、あっというまに野菜のおいしさが引き出され食べられる柔らかさに。あとは醤油なり鰹なり味噌なり胡麻なり、そこらへんのもので味付けて盛る。

お鍋でご飯を炊くのも気がつくと頻度が増えていき、うちの炊飯器はこの間、学祭に使うとかで多摩美に持っていかれた。そろそろ返してくれ。私以外の家族がご飯焚くときは必需品なので取られたくはない。

このように、断食した人らしいものを、今も食べている。でもひとつだけ不思議なことが。それは、断食のあと数ヶ月間は、肉やクリーム類など考えるだけでも駄目なほどあっさり志向になっていたのに、終わった直後から欲しかったもののひとつにお酒があった。それも樽木の香りがするような日本酒。これが、かつてないほど、焦がれるほどに欲しかった。

直後に欲しかったものには大変身体に良いというのもがずらりと並んでいた。お米のご飯、味噌汁、お豆腐、お漬け物、ごま塩‥‥そしてなぜか日本酒だった。それで私はひそかに、日本酒をヘルシー食品・特級の仲間に入れている。 2005/11/08


京都へ「のぞみ」で日帰り

取材で「京都へまた行ける」という嬉しいことになり、朝6時に家を出る。新幹線はちょっとした朝のラッシュだ。7時前後の「のぞみ」の本数の多いこと。

乗り込むと車両にいる人の95%はビジネススーツの男性。私は半年に一度くらい日帰り関西をしている気がするけれど、いつもこの光景には「ああ男社会だ」と思わずにはいられない。でも、みんな「あー。やんなっちまうよ。まったく朝早くから」って顔をして乗っている。出張費使うような立場の人は男が多いけれど、男も楽しくしているわけではないらしい。

夏の炎天下に歩き回った京都にまた行けるのが、うれしい。実は、病院の取材で一日終わるので町を歩く時間はまったくない。でも、やっばりなんとなくうれしい。でもやっぱり、一日ビビーッと病院の中で過ごす。REBORN産院リストにも載っている足立病院の不妊治療センターの取材です。

卵管造影検査のカテーテルなどを参考物件としていただいた。私はどうしても感覚人間なので、こういうものでイマジネーションを駆使し検査を理解したいと思う。

帰り道、カメラマンさんが関西の方で車だったので、駅までつかのまの京都ドライブをする。「あっ、先斗町」「あっ、国立博物館」「茶碗坂だ〜」と夏に回ったところを通って頂けて車窓に感動する。あの暑かった町に秋風が吹いている、ただそれだけで何だかうれしい。

午後7時過ぎ。帰りの「のぞみ」も「ここ、男性専用車両か?」と思うほどの男性ビジネスマン率。しかし、帰りはみんなビール飲んで、同僚と一緒になっている人もあり、ちょっと一杯飲み屋のムード。

新幹線では、私には読みたい本があって、楽しみにしていた。行きは準備で読めなかったのだ、帰りは、と思っていたのに、となりのふたりがさかんに談笑してうるさかった。ああ、私の世にも貴重な、ひとりになれる2時間が‥‥。

でも私も、ビジネスマンの妻なのでなんとなく許してしまう。東京に着くと、自宅の最寄り駅につくのが夫と同じくらいになりそう。待ち合わせると、夫も「のぞみ」にいたおじさんたちのように「あ〜、疲れたよう」とヨレヨレ帰ってきた。駅前のマック(遅くてここしかあいてない)で10分のディナータイム。

家に帰ると、下の子が必死に目をあけて私の帰りを待っている。「今日の朝は、私がおかあさんをした」という。「ママが作ってあったお味噌汁をよそって、ご飯もよそって並べた」そして兄と姉を起こしたそうである。明日は上のふたりをいじめてやらな、と思いながら就寝。 2005/10/20


ある少年が受けたヨーガ教育

インドから日本を訪問中のバーバさんというヨガの先生にお話を聞く機会がありました。42歳ということですがまだ30代で通りそうな、とても若々しい男性です。

お父さんがヨーガの先生だったバーバさんが瞑想の練習を始めた時、彼はわずか5歳だったそうです。インドには108の玉をつないだお数珠がありますが、神様の名前を一回唱えてはこれをひとつずらす「ジャパ」が最初に命じられた練習でした。

途中で根気が切れますが、お父さんの指導はとても厳しかったそうです。インドでもこんなことをさせられる家庭は多くなく、「僕のお父さんはアタマがおかしい」と思いながらも毎日、毎日ジャパを続けたバーバ少年。やが一年が経過するころ、苦しさはなくなり、習慣として身に付いたそうです。

瞑想の坐り方をするようになったのは、十代になってから。インドにはたくさん神様がいますが「どの神様が好きか」とお父さんに聞かれました。その神様の肖像を見つめ、そして目を閉じ、眉間あるいは心臓のチャクラがある位置で描き出すという練習が始まったのです。

クリシュナを選ぶと、お父さんは「では、お前をこの世に送ってきたのはクリシュナである。クリシュナは、おまえが人の役に立つように願ってここに送ってきた」と言い、「クリシュナからこんなに遠く離れてしまったことを悲しく思って泣きなさい」と命じました。そして本当に涙を流さなければならず、涙が乾くと「ピシ!」と痛いのが飛んできました。バーバ少年はそんな父親が怖くて泣いていました。

バーバさんが、こんな厳しいお父さんのヨーガ教育に感謝するようになったのはずっと大きくなってから。回りに較べて集中力、記憶力が高かったので、学業がとても楽だったし、スポーツをしてもすぐに世界大会へ出場するほど早く上達しました。

しかし、しかしヨーガでは、優れることは、ほんの土台作りに過ぎない。ここからが考えたい部分です。彼が、クリシュナを思って泣け、と言われたのは何だったのか?日本人は、ここからの部分を「ヨーガのあやしい部分」といって警戒し、だから神様のカの字もないヨガ教室でないと流行らない訳ですが、ここからがヨーガの醍醐味に入るのだと思います。

彼の言葉では「自分を捧げる気持ち」をたたきこまれたということです。「アインシュタインはものすごい集中力を持っていた。でも、ピュアな集中力とは神様への集中力。クリシュナは私をピュアな状態でここに送ってくれたのだから、私はピュアでいなければ彼のもとには帰れない」インド人でなければインドの神様を思うことは難しいが、どんな神様でもいいし、日本人なら富士山のような自然でもいいということです。

ヨーガはあの世に帰っていくときのことを目的としているところがあり、とすると、バーバさんは5歳の時から死の準備をしてきた、ということになります。

この日はインドのヨーガに触れることができた大変興奮する経験でした。もっともっと大変なスケールのお話があっていつかじっくりと書きたいけれど、今の私にはまだまだ。ヨーガは、追えば追うほど深遠な顔を見せ、届かなくなります。 2005/10/13


さくらももこワールド

連休の一日、銀座MATSUYAへ「さくらももこワールド」という展覧会を見に行きました。先日書いたように娘がちょうどこの夏はさくらももこエッセイの夏でしたので、連れて行ったわけです。

入り口には、篠山紀信氏撮影のさくらももこさんの写真が。紺絣の着物に赤い髪飾りをつけ畳に寝ころんでいる、とてもキュートな写真。これだけで、来場者はもう満足感いっぱいです。

『りぼん』投稿時代から今にいたる20年の軌跡はボリュームたっぷりでした。私が特に印象に残ったのは、彼女がデビューした時の感動をそのまま持ち続けていること(初めての掲載誌を道ばたの外灯の下で見ている絵などありました)、コジコジ原画の深いファンタジー、それからTVには決して顔を出さずプライバシーを確保している姿勢などです。今回、これだけ素顔の自分を展示してくれたということは大サービスだったのではないでしょうか。

子育てのはじめの頃は本当に大変だったみたいですね。寝かせるのに三時間かかったりしたとか。でもその前後から絵がめきめき腕を上げていて、何だか感動します。この息子さんが、自分のおかあさんがさくらももこだとずっと知らなくて、しかもファンだったというのは有名な話。

『神の力』のようなブラックな漫画を描いたり、立体作品を作ってみるなどいろいろな試みを重ねながら国民全部を巻き込んでいく作品に昇華していくさくらさんの力はすごいなと思います。

一番惹かれた絵は、仕事部屋に飾ってあるという、一匹の大きな魚の絵でした。さくらももこらしい蛍光色系の色がのびのびと、力強く使われていて、まっすぐ、まっすぐ泳いでいました。

娘—そう言えばまるこちゃんと同い年—は、『神のちからっ子新聞』をせしめ、地下鉄でもクスクス、イヒヒ、アハハ‥‥と笑い続けながら帰りました。これ、かなりおもしろいです‥‥。 2005/09/19


わが家の戦後

息子のライブ、朝「ほんとに来ないで、お願いだから」と釘を刺され「おかあさんに二言はありません」などと行ってしまった私は、ほんとに見に行きませんでした。バンドの他のご家庭ではみんなこっそり行ったのに、馬鹿正直な私です。

しかし息子は喜んでくれ、校内ですれ違ったとき投げキスを送ってきました。息子も馬鹿息子です。結局、「来年は行くからネ」ということになったので、まあいいか。

祭りも台風も、そして選挙も去ったいいお天気です。今回の選挙は、わが家も見事に地滑りました。とりわけ劇的だったのは私の母で、選挙から帰ってくるとボーゼンと「私が自民党に入れたわ。自分で驚いたわ」と言いました。今朝もまだ言っていました「この私が‥‥この私が、自民党にいれるなんて」

母は女性選挙権ができた時に二十歳になり、戦後、『青鞜』を愛読していた自分の母親と共に感動的な第一回目の投票をしたそうです。それから就職したのは国家公務員、戦後にデモ隊が皇居になだれ込んだ「血のメーデー事件」なんぞも実際に知っている組合運動の人でした。

母は80才なのですが、きのうの選挙では少し楽になったかもしれません。長い間、時代に合わない憤りを持ち続けていたので。わが家の戦後も終わりにけり‥‥かな。 2005/09/12


あー、つまんない

この一週間ほど、地域の用事漬けで深刻な仕事時間不足‥‥先週末は子供会が20〜30年ぶりに夏祭りを復活させてしまい、予想の何倍もの人が来ました。ヨーヨーや綿菓子作るのうまくなりました。きょうは午前は息子の高校PTAの学祭準備手伝い、午後が下の子の小学校保護者会で夜は自治会。

久しぶりに高校の学祭前日の雰囲気に触れました。今の高校はダンス、ダンス。ダンスユニットが大流行です。校内いたるところで、男の子も女の子も真剣な顔をしてステップを踏んで明日に向け練習していました。

それでうちの息子はというと、パンクのバンドでギターを弾いているので明日はライブをします。でも、私には絶対に来ないで欲しいとのこと。ああ、私は日本にパンクバンドというものが生まれたとき、お仕事でさんざんライブを撮っていたのに息子にはそう懇願されてしまいました。私がいると、わめいたり暴れたりしにくいんだそうです。

あー、つまんないの。私は明日PTA喫茶店というものの係をしに高校へ行くのですが、そこから出ることなく、ぶーぶー言いながら珈琲沸かしていることでしょう。あー、つまんない。息子がバンクバンドでわめいたり暴れたりしているところなんて、どれだけ見たいことか! 2005/09/09


山本高治郎先生を訪問する

母乳史の取材で、岩波新書『母乳』の著者であられる山本高治郎先生を湘南のご自宅にお訪ねしました。御年88歳です。

『母乳』は、私が母乳の名著を一冊選べと言われれば迷うことなく選ぶ一冊です。それで長く尊敬申し上げつつ、しかし近づきがたいほど尊敬申し上げてしまったので、お会いするのは今回が初めてでした。

山本先生はフランス語に堪能で、かつてフランス小児科の権威ルロンの著書『育児学』を翻訳されました。この本でルロンは自律母乳を当然至極のこととして記し、管理的な授乳こそ科学的だと思っていた日本の専門家の目を覚ますひとつのきっかけになりました。

なぜ山本先生がフランス語ができたかというと、東大の恩師に「私は英語、フランス語、ドイツ語の三カ国語ができない者は大学生扱いしない」と言われたのだそうです。なんという学習環境。その恩師とは、今では詩人として知られる木下杢太郎でした。当時の東大医学部は第二文学部とさえ言われたそうです。

でも山本先生自身は、時間決め授乳にははじめから疑問をもっていたそうです。それは、農村に育ち、ご自身のお母さんや近隣の女性の母乳育児を見ていたからだそうです。

母乳育児のやり方かおかしくなったことについて、山本先生が繰り返しおっしゃったのは「母乳だけの話ではありません」ということ。「私たちはどこから来たのか。どのように作られたのか。今、私たちはみんなそれを考えて、反省しなければならないですよ」

おいとましてから、この「どこから来たのか」「どのように作られたのか」というふたつの表現が、何度も頭にリフレインします。こうした、言ってみれば宗教的なものの見方ができるかどうかで、現代人は二派に割れている気がします。

母乳は、かつては生存への唯一の道でしたが、今では粉ミルクでも明らかにちゃんと育ちます。その時代にあって「母乳がよい」と言うことは、かつてとはまったく違う意味を持ってきた。

それは、やはり自然に対する謙虚さ、あるいは畏れを感じるかどうかということですね。もちろん身体の問題としてさらに追究していくことは大事ですが、本質的にはその人の哲学ではないかと思いました。 2005/09/16


子どもが読める大人の本

長い夏休みもようやく終わり。下の子も小学校のプール検定を受かってくれて、ほっとしました。

この子の夏休みのおねだりは、ふたつでした。「一緒にプールに行って泳ぎを教えて欲しい」と「『星になった少年』に連れて行って欲しい」というもので、先週末の土日に、2つともすべりこみでクリアーしたところです。

夏休み読書で今年この子に買ってあげてよかったのは、さくらももこエッセイ集の数々。春頃から私の持っている酒井順子さんなど面白がるようになったので「こんなのもあるよ」とすすめたところ、かなりはまっています。TSUTAYAでたくさん手に入るので、便利。

親子で楽しめる本としてうちで人気が出たものは、このほかに『プチ哲学』があります。今は懐かしき団子三兄弟を描いた佐藤雅彦氏による感動的な哲学絵本。とっても可愛い。これは上の子と私と、偶然にふたりとも買ってしまった唯一の本でもあります。下の子は、この絵本を写すのが大好きです。

他に、星新一は、親子で読める本の定番なのかな。トットちゃんも忘れてはいけないし。本って子どもの本はおもしろいものが少ないので、大人の本だろうが何だろうが、誰が読んでも絶対おもしろい本を子どもに読ませるのがいいようです‥‥というか、親が面白い本を持っていれば、読む子は勝手に抜いて読みますな‥‥で、読まない子は読まないですな(子どもが3人いると、このように悟ってきます)。 2005/08/30


うちに仏壇がない理由

帰京する寸前、私は京都駅に近い和ロウソクのお店で和ロウソクを買いました。でも、欲しかったから買っただけで、うちにはお仏壇はないのです。私が育ったうちにも、父は長男でしたが仏壇はありませんでした。

ひとりで暮らしていた父方のおばあちゃんが95才で亡くなった時、持っていたお仏壇を父は引き取ったのです。でも、お線香のにおいが好きでなかったし、家が狭かったこともあって、母に「押入にでも入れておけ」と言ったのでした。

おばあちゃんの遺影も、壁に掛けたがりませんでした。「写真を見ていると、自分の中のその人の存在が写真になってしまう」と言うのです。いつも同じ顔をしている紙に過ぎない写真より自分の中の母親を大切にしたい、という父の気持ちはよくわかりました。

そんなわけで、私が二十歳のころ父が死んだときも、線香嫌いで「戒名など意味がない」と言っていた人にそういうこともできなくて、うちは、このときも仏壇を設けず、写真も飾りませんでした。

「蘭ちゃんち、不思議やなあ。お父さん死んだのに、どうして仏壇ないの」帰京する日、姑と京都駅のそばでお茶を飲んだとき、ふと、そんな話になりました。

そう言う風に理由を問われれば父の話をするしかないのですが、また改めて、父のあの言葉の意味を考えてみたい気がする、そんな旅の終わりでした。父は大正時代の美濃の大きな家で育った人なので、仏教の中で育ったに違いないのです。

でも、あれが、父の考えた、故人とのつきあい方だった。誰にも型にはめられない思い出だけを、ひとりそっと大切にすること。決して仏壇や戒名やその他の形式ではなかったのです。

帰った夜は、蝉が夜中まで鳴いていました。ああ、まだ夏なの?お盆は終わったのに?と思っていたら、次の夜、もう蝉は鳴かなかったのです。そして、小さな秋の虫の声が聞こえ、それが毎晩、クレッシェンドしていきます。 2005/08/22