子どもたちの市長選挙

今日は一番下の子の小学校の授業で市長選挙がありました。グループごとに候補者を立てて立ち会い演説会をおこない、他の学年と父兄が投票しました。この日のために、子どもたちは周囲の大人に、市政に何を望むか聞いて回りました。

絶対に来て、と言われて行ってみると、なんと市立病院のことや産婦人科、小児科の問題はかなり関心が高かったようです。「近くに大きな病院が少ない」「産むところがない」「夜間の救急が不安」など。公約にも「産婦人科を建設する」「医師を増やす」といったものが多々ありました。一番多かったのは「緑を増やす」だったかもしれませんが、その次くらいにたくさんの子どもたちが医療問題で選挙を闘いました。

いつも取り組んでいることが小学生にまで身近な問題とは。子どもたちが周りに聞いたアンケートでも医療は最大の関心事ということで、改めてこれは大きな課題なのだと感じた小学校最後の参観授業でした。 2009/03/03


畳屋さん

わが家には畳の部屋が一室だけあります。越してきてから15年間、ほとんど何もしてあげなかった。でも、このたびこの部屋を私たち夫婦専用の寝室にすることにしたので、畳を変えることにしました。家族が減ったことで、自分だけの部屋がなかった一番下の子の部屋ができ、私たちはついにお子様と川の字で眠る時代を終わったのでした。

国産の減農薬畳を扱っている畳屋さんを呼んで下見をしてもらいました。新しい畳を入れた方がいいのかと思ったら、土台は残す「表替え」というのをするので十分なのだそうです。目が細かくて、木綿糸と麻糸の二本でしっかり織ったものを選びました。

そして縁を選びます。ずいぶんいろいろな和の色、織り方があって、たった今、和室の楽しみを知ってしまったかも・・・これはやばい、という状態になりました。さんざん迷って渋い緑色の久米絣を選びました。来週、新しい表になるのが楽しみです。

最近したことは、この半月寝ても覚めても考えていた新タイトルの目次を仕上げたこと、母乳育児のイメジェリーについて研究する助産師さんの相談に乗ったこと、NTT東関東病院の助産師外来について助産師さん・産科部長先生たちの取材をしたこと、ベネッセ次世代育児研究所の妊娠、育児に関する調査の記者説明会に行ったこと等々。

モーハウスの光畑さんの著書執筆にご協力するという名目で、一緒に渋谷は百軒だなのカレー屋さん「ムルギー」へ行ったりもしました。照明のためか明るくなっていましたが、内装は大きくは変わっていませんでした。娘さんが継いでいらしてとてもうれしかったです。

こんなことをしながら昨日2月の仕事予定を見渡したところ、どう考えても日数が足りないことが判明して焦っています。心して働かねば。 2009/2/03


お月様入りの日記帳

今年は、昨年末に横浜市・みやした助産院でふと購入した「旧暦美人DIARY」が気に入って(綴じや紙質がとてもしなやかなのです)毎日日記を書いています。ので、自然体日記もこうして、もしかしたら今年はたくさん書けるかもしれない!?

月の満ち欠けがはっきりわかっていると、現在時刻を知るに似た安心感が確かにありますね。また日記を書くたるに1日やったことを思い出すと、午前のことなどけっこう昔のような気もして、1日というものは自分が思った以上に何かしたり考えたり感じたりしているものだとわかります。

そんなことを万年筆で書いています。最近は高機能なよく滑るボールペンがブームのようですが、あまのじゃくの私は、最近、ちょっと余裕があればほとんど万年筆になってしまいました。これも、ふとペリカンの子供用万年筆を買ってしまったのがきっかけです。字を書くときに少し力が要るのが不思議と気持ちよく、ボールペンに手が伸びなくなりました。

父が文具マニアだったので私は子ども時代には何かと万年筆をプレゼントにもらいました。でも、ほとんどの万年筆がインクを交換したこともなく何処かへ消えてしまい、親が子どもにいいものを買い与えるなんて無駄なことだからやめましょう、という見本でした。

今週は、またみやした助産院に行ったり、神奈川県立こども医療センターで「AERA with Baby」の取材をしたり、産科医療補償制度の取材で昭和大の岡井崇先生の所にうかがったり、テレビや新聞の取材のご協力をしたりしています。

先日、ある新聞の取材を受けたときは、ちょっとうれしいことがありました。育児休暇中の記者さんが同席してくれたのです。赤ちゃんと、赤ちゃんをみるパパ連れで。私もこんなことをしていたなあと懐かしかったですし「私と仕事する人は、大歓迎だからどんどん赤ちゃん連れて来て!」と思いました。

そして周産期医療の再建について単行本を企画したいと思って目次作りに格闘中です・・・今年ぜひやりたいことなので粘ります。 2009/01/21


2番目の子が成人式

わが家では2番目の子が昨日は成人式でした。子どもが成人を迎えるということは、やっぱりうれしいものです。スーツ着てバイクで走っていくのを見送りましたが、本人もうれしそうでした。

崩れ消えていくバブル経済を背景に「ゆとり教育」で育ち、就職活動寸前に大不況を迎えるという年回りの今年の二十歳です。親としてはこれからいいことがたくさんあってほしいと思います。ま・・・人生長いのでこれからでしょう。

一人目の方はお正月に誕生日で23歳になり、まもなく大学卒業でちょっと寂しそうです。就職するデザイン事務所でもうバイトを始めていて、その事務所が年末にTシャツを作ったので家族みんなでいただきました。社長さんがソファで居眠りしているところを娘がスケッチしたかなり面白いTシャツなのでした。

私は、年末に仕事部屋に念願の作りつけ本棚をしつらえました。まだベニヤ板の香りがし過ぎですが、本や書類が片づけやすくなりました。大変な出版不況になるということですが、こればっかりは思い悩んでもしかたがありません。もし本当に仕事がなくなったら、あわただしい生活の中で増える一方の「積ん読」本たちと仲良くして暮らそうと思います。

この連休にはうちの唯一の「子ども」となった小6と空手の初稽古に行って山を裸足で走りました。今年も足の裏に赤や紫の模様(あざです)をいっぱい作って、かつ筋肉痛で泣きそうな松の内の終わりです。

寒中見舞いをそろそろお出しします。喪中のお正月でしたが、喪中の人用の挨拶はがきを印刷されて元旦に届くように投函されている先生がいたり、「クリスマスカードにしますね」と他の手段のものを下さる方がいたり、なじみの方のいつものお正月には気づかないマナーに出会ったあたたかい新年でした。 2009/01/13


氷山の一角

墨東病院の報道で喪中モードから目が醒め、ちょうど1ヶ月です。私がこのニュースを聞いたとき、真っ先に頭に浮かんだのは「氷山の一角」という言葉でした。

それからしばらく私が感じていたのは、社会が受けている衝撃と医療関係者の「どうしてそんなにことを今さら騒ぐのか」といった落差でした。医療がうまくいっていないことに、産科関係者はだんだん慣れてしまっています。

でも、あれから1ヶ月・・・たくさんの医師にインタビューし、懇談会やセミナーに行ってで取材を進めるうちに、状況はまた一段と悪くなってきているように思いました。今日もこれから神奈川県立こども医療センターに行きますが、ここ神奈川では話題に産科救急システムがいちはやくできていたし、医師会にはコーディネーターもいます。しかし、県外搬送が一年に70〜100件もあり、その半数が搬送時間2時間を超えています。

墨東病院の一時間半は、このような地域にとっては「割と早かったのでは」という感覚を持たせる時間なのです。

脳出血も、今や産科疾患ではほとんどお母さんが亡くなることはなくなった中で、おそらく妊婦死亡の第一位であろうということでした。

あふれるNICU(新生児集中治療室)、産科疾患死亡の減少と他科疾患の増加・・・医学の発展はさらなる医療資源を求めますが、人口は減少し、経済は縮小しています。

来春あたりに産科医療のジレンマをまとめたいと思って動き出しています。 2008/11/21


父母という男女

朝、ヨガへ。中央線に乗って行くと、多磨霊園に近い武蔵境のあたりで涙があふれて、電車の中で止まらなくなってしまいました。

昨日は葬儀でお世話になった牧師さんに来て頂いて、埋骨式をしました。武蔵野の面影を残す大きな木がたくさんある多磨霊園。それはそれはいいお天気でした、今日とまったく同じように。目を閉じると多磨霊園の大きな木と大きな空がさーっと広がり、そして陽の光があふれます。

実は昨日は、私はお墓や式の準備、打合せまですべてひとりでしていたので、まるでイベントの本番日みたいに何も感じる余裕がありませんでした。何か不備はないか、運転を間違わないか、参列してくれた10数名の親戚が何か困っていないかとか、そんなことで頭が一杯一杯になっていました。でも、昨日と同じお天気が、昨日できなかったことをさせてくれたみたいです。

私が継承することになったお墓は、今まで父の名前と日付が一行彫られているだけでしたが、母の一行が加わって2行になりました。2人の名前が安らかに並んでいます。

やはり、自分のお父さんとお母さんがこの地上から消えてしまい、石の証しだけになった姿は悲しいものです。

でも、もうひとつ不思議な感覚も訪れるのです。この2人が今お墓の中で一対の男女として眠っているということは、私は、自分が生まれたところを再び手にしたように感じます。夫はどういうかわかりませんけれど、自分にもいつかその日が来たら、来たところへ帰りたいと思ってしまいます。

第二次世界大戦後の復興期、国立公衆衛生院の職員だった母は職場のフランス語サークルに参加し、そこで講師に招いていた父と結ばれました。写真で見ると、当時の2人は娘の知る両親とは結構かけ離れた大変なおしゃれをしていました。

2人は長い間仕事優先で暮らしていたけれど「やっぱり子どもを」と母34歳・父44歳で私を産んでくれた。子どもメインの人生ではまったくなかった2人なのに、本当によく私を産んでくれました。

<写真> 私が生まれる前の父と母。昭和30年頃の撮影だと思います。 2008/10/18


静かな年末

日記を読んで下さった方々に、よく「仕事はどうなさっているのですか」と聞かれますが、仕事は葬儀の数日後から再開しておりますのでご安心下さい。10月、11月は講演のご依頼もたくさんいただいている季節なので、ひとつずつの出会いを大切にしていきたいと思っています。

キリスト教で儀式をおこなってきたため、わが家には喪中とか「ケガレ」という概念はほとんどありません。これは、周囲にはご迷惑なのですが、遺族にはなかなかいいことです。家の中にはお線香の一本もないし戒名もなし。ただ時々いただくお手紙とかお花をお骨に供えているだけです。何日に何をしなければならないというきまりもありません。

わが家は実はお墓も簡単でして、石をおいて、生まれた日と死んだ日と本人の筆跡で名前を書いてあるだけです。そんなお墓を20年くらい前に父が死んだときに作ったので、今回もそれに準じて準備中です。父が作家の直筆原稿のコレクターでしたので、筆跡というものにこだわったお墓になっています。

きのうは年内のプランを大まかに立てました。今年はいわゆるお正月がないと思うと何だか気が楽です。年の瀬に向かうあわただしさを、今年はあまり感じません。喪中って、もしかしたら「お疲れ様」っていう意味なのかもしれませんね。

長いことかかえてしまった仕事をきれいに片づけることに心静かにとりくめそうなので、そこに精力をつぎ込みながら、冷たくなってくる空気を楽しみたいと思います。 2008/10/06


母を送った夏

8月25日に同居していた実母を亡くしました。早いもので、もう半月が過ぎました。

83歳だった母は、今年のある春の日、庭のさくらに見とれて枝を手折りたいと思ったのです。そして庭にあった椅子に乗って手を伸ばしてしまったので転倒して骨折しました。転ぶのがこわくて人に頼ったばかりいた母がなぜそんなことをしたのか、それはさくらを通じて何かが語りかけたのかも知れません。さあ、あなたに時期が来たのです、と。

家でじっとしていられない性分の母は電動二輪車に乗ってよく出歩いていたのですが、それ以降閉じこもる毎日になり、認知症が一挙に進行しました。4月に見えた介護認定をする方が「私は何百人もこういう方を見てきましたが、あなたにはこれからびっくりすることがたくさん起きますよ」と的確に予言していきました。その予言は見事に当たりました。

母はそれまでも強い性格で家族を振り回しましたがその傾向はますます強くなりました。どんどん子どもへと退行し、さらに脳は壊れて片時も家にひとりでおいておくことができない状態になりました。しかし、インシュリンを打っていて、肝臓がんもあった母を受け入れてくれる施設はなかなか見つかりませんでした。

そんな母に再び手招きがありました。梅雨もおしまいになるある日、自分は誘拐犯にとらわれているという妄想を持った母は、ドアを開けて家を出て行ったのです。

私と母の別れは、拘束と施錠とそしてトランキライザーの日々でした。別にずっと拘束されていたわけではないのですが、やはり強烈な印象になって残ります。これらのすべては、私が家庭裁判所で母の人権を奪ったことで法の下のこととなりました。

うなぎを食べたことを日記に書きましたか、あれはトランキライザーが見せてくれた私たちの最良の時間でした。薬の力を借りてしかあり得ない幻だったかもしれません。でも、生きていることはそれ自体が幻であるような気もします。お酒の力を借りて恋をする人もいる。それと同じだと思います。

そのあと、少しずつ母は身体的に弱っていき、トランキライザーの使用が中止になって症状が戻ってきてしまいました。ただ、エネルギーもなくなってきたので極端なことはもうせず、また脳の変化のために自分の症状を深刻にとらえて悲しむこともなく、のんきにベッドで気宇壮大なことを言っていました。やせ衰えるということもなかったので、私はまだ先だと思っていたのですが、ある晩、真夜中に病院から電話が鳴る事態となりました。

夜明けを待って、母が何年も前から決めていた教会に電話をしました。最近何度かかけていたのにいつも不在で困っていたのに、その朝、牧師さんがすぐに出てきたときは本当にびっくりでした。しかも、翌日からは幼稚園のキャンプで不在だったと言います。あの朝だったということも、何かの手招きだったのかもしれません。

教会は明治に創立、関東大震災で建て直された本郷中央教会。三方をガラス窓に囲まれた横長の礼拝堂はゆったりと人を包み込むようで、足を踏み入れたとたん私は魅了されてしまいました。母はこの幼稚園を出ていて、クリスマス会でマリア様を演じた写真を大事に持っていました。

葬儀の式は、20年くらい前の定年退職まで結核の研究者だった母の一生のおつきあいの方々とお会いしてタイムマシンさながら。懐かしさで一杯になりました。

牧師さんに母の経歴を渡すと一生懸命に読みこんでくださり、本当にいい式をとりおこなってくださいました。最後に母の身体を空に返すとき、見送る人たちの力強い賛美歌でまもりました。

そして母はあんなに強かったもろもろの執着からついに解放されて、自由に透明になりました。

あんなに私に抵抗していた母だけれど、真っ白な十字架のついた黒いサテンに包まれた母の骨を抱くと、私の腕の中にすっぽりと収まり、暖かでした。

その夜、一番下の子がこんなことを言いました。
「死ぬのがこわくなくなった。今日、こわくなくなったの」

いいことがひとつでもあればいい。うなぎの日もあったし、いいお葬式もできた。

母は私を産んだときも、育てたときもみんなあまりうまくいかなくて、だから私は今こんな仕事をしているのかと思います。でも私は今は、世の、ごく普通の傷だらけの親子に拍手を送りたい気もするのです。どんな親子でも、宝物ひとつはあるはずだから。

専門家は理想の親子を語ることは要らず、そのひとつを手伝うことができれば、それでいいのではないでしょうか。 2008/09/11


一年の計

今日は誕生日なので、なんとまあ49回目の誕生日でしたので、珍しくこの年齢のうちにやりたいこと・やるべきことについて考えました。

私はお産人のはしくれですので、平均寿命80年の現代であっても、人生50年という言葉は大事にしたいと思ってきました。これは生殖活動という私の分野を基本にした人生のとらえ方ですので、これを意識することは自分に合っているような気がするのです。

現代は少子化という現象をベースにダウンサイズの時代ですが、私の人生もこれからはいたずらに大きいものは排除し、本当に大切な少しのものを深く丁寧に扱い、気持ちのいい引き算をしていきたいと思います。

それと同時に、ここからは今までやってきたことを結実させていかなければなりません。今までやってきたたとは何だったのか、その表層だけではなく本当に自分が目指してきたものをちゃんと認識して、それを形にしていきたいものです。人生の後半とは、それを考えると真剣勝負の時期でもあります。 2008/08/14


今夏のうなぎ

真夏の太陽が、大きく傾きながらも今日最後のパワーでぎらぎらと照っていました。夕方5時、淡水魚独特の土のにおいがぷんと香る・・・うな重と肝吸いをのせた出前のかごを受け取ると、懐かしい夏のにおいがしました。

入院中の母が初めての外出で数時間だけ家に帰りました。母はきっとうなぎが食べたいというのではないかと思っていました。母が育った上野は大きなうなぎ屋さんが多いので、母方の親戚が集まる日は、何で集まるのであれ、いつもうなぎをとりました。

本郷にある母の小さな実家で、何十人も集まって、うなぎを食べました。小さな仏壇があった二階の座敷一杯に机を並べて、窓からはやはり土のにおいがしました。路地に打たれた水が再び空へのぼっていくにおいが。

明るい夏の夕方に、母とふたりでうなぎを食べました。トランキライザーのおかげで、母はこのところ日に日に穏やかになっています。そこで主治医は外出をすすめてきました。残された時間は限られているのだから、と。

何をしていいのかわからなかったのですが、ただ、家の静かな居間にいていつものように洗濯物がひるがえっているのを見て、お茶入れて、何となく思い出に包まれるだけで十分でした。

うな重のお箸を置いてすぐ車に乗り込み、夕焼け雲を見ながら高尾の奥へ。病院は高尾にあります。「おかえりなさい」と優しいナースマンが迎えてくれました。 2008/08/03