本当は年末に行くつもりだった金子みすず展へ、やっと行きました。この展覧会は銀座の松屋で開かれていますが、遺稿の3冊の手書きの詩集の現物が展示されています。1ページでいいから中が見たい、と思いましたが、中は、写真でしか見られません。そのかわり、たくさんの詩を、みすず直筆の字で読むことができます。
みすずは「まどみちおの憧れの詩人」といったら一番たくさんの人にわかるかもしれません。大正デモクラシーの時期に西条八十に認められて世に出ましたが、不幸な結婚をし、子供を前夫が引き取りに来る前日の夜、26歳で自らの命を絶ちました。
私にとって金子みすずは、はじめ、子供の感性を神秘的なほど持ち続けた人として惹かれましたが、しだいに、宮沢賢治のような、仏教の詩人だと思うようになっています。
みすずは、山口県の仙崎という、古くは捕鯨をしていた漁師町の岬にある商店街で、本や文房具を売る店の子として育ちました。今回の展覧会では、その商店街の古い絵地図が展示されていて、これは、みすずが生きていた世界をまことに彷彿とさせてくれました。詩に出てくる場所が、絵地図の上でわかるのです。
たとえば「うちのだりあが咲いた日に、酒屋のクロが死にました。」で始まる「犬」という詩があるのですが、酒屋さんはおとなりだったようです。
私は前からみすずと仏教の関係が知りたかったのですが、それも、その絵地図にありました。商店街のはずれは、大きなお寺でした。その西円寺という名のお寺は、安永の昔(18世紀)、「小児念仏会(しょうにねんぶつえ)」という日曜学校を世界に先駆けて始めたところだそうです。みすずが小さいころも、この日曜学校は盛んにおこなわれていたそうです。漁師町ではもともと、殺生への意識が鋭敏で、仏教信仰が盛んだったそうです。
みすずは故郷の影響を非常に強く受け、故郷を描いたといってもいいくらいの詩人です。そこに海があったこともとても大きいのはもちろんですが、形骸化していない生きたお寺がひとつあったことが、みすずの世界を切り結んだようにも思います。
仙崎へ行ってみたいです。海への道を歩いて、今も立っているという、この榎の木が見たいです。
「このみち」(金子みすず)
このみちのさきには、
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆこうよ。
このみちのさきには、
大きな海があろうよ。
蓮池のかえろよ、
このみちをゆこうよ。
このみちのさきには、
大きな都があろうよ。
さびしそうな案山子よ、
このみちを行こうよ。
このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。
みんなでみんなで行こうよ、
このみちをゆこうよ。
2005/01/10